ジュリーと禅

今年2月に発行した寺報『信友』の巻頭「ジュリーと禅」を転載いたします。
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昨年の十月、テレビや雑誌をにぎわせたのが、ジュリーこと沢田研二のドタキャン騒動。みなさまのご記憶にも新しいことでしょう。

定員九千人の会場が七千人しか埋まらないと聞いたジュリーが、約束が違うとヘソを曲げてしまったというお話。会場まで足を運んだ観客の気持ちを考えていない、ファンあっての仕事なのにけしからん等と多くの批判が浴びせられました。それと同時に、変わり果てた、ケンタッキーのおじいさん(カーネル・サンダース)のようなジュリーの風貌も話題になりました。

一方、信友のみなさまからは、ジュリーファンの私の母に対して、ご心配をいただきました。法事にお越しの際に、「お母さん、大丈夫でした?」と口々に尋ねられ、ジュリー好きがこんなにも浸透しているのかと驚きつつ、母の気持ちを案じてくださることをありがたく思ったものです。

母は、幸いにして、当該公演には行っておらず、直接の被害はありませんでした。むしろ、毎日、テレビをつければジュリーが映るので、上機嫌。そして、「こういう頑固なところがジュリーらしいのよ!」とますますジュリー株は上昇していました。

たしかに、コンプライアンスがどうのこうのと厳しく言われ、芸能人も小粒になっている昨今、七千人の客がいても、「俺は歌いたくない」と我を通せる人はそういません。そんなジュリーを見ながら、私はふと禅宗のエピソードを思い浮かべました。

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瑞巌(ずいがん)の彦(げん)和尚、毎日自ら主人公と喚(よ)び、復(ま)た自ら応諾す。乃ち云く、

「惺惺著(せいせいじゃく)、喏(だく)。他時異日(たじいじつ)、人の瞞(まん)を受くること莫(な)かれ、喏喏(だくだく)」

(訳)師彦和尚はいつも庭前の石上に坐り、大声をあげて自問自答します。

「主人公よ」、「ハイ」。「目をさましているのか!主人公がお留守になっていないか!」、「他人のうわさ話を気にするな!主人公を見失うなよ!」、「ハイハイ」

http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/070701.html
(臨済宗・黄檗宗の公式サイトより)
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このエピソードは「主人公」という言葉の由来とされています。今は主役のように用いられる「主人公」ですが、ここでは、本当の自分、主体的な自分という意味。つまり、常に自分自身に「目を覚ましているか?」、「周囲に振り回されていないか?」と問い続けることが大事なんですね。

禅の境地とは、世の中の常識や価値観に振り回されず、自分で自分の人生を歩み切るというもの。私は、ジュリーのドタキャン騒動に、周囲におもねらない「主人公」の姿を見たのでしょう。

それにひきかえ、私たちは、常識や世間体を気にして、物事を考えてしまいがち。窮屈に思いながらも、そうせざるをえないのが私たちの哀しい性(さが)。世の中のジュリー叩きも、どこかに、「そんな風に自分を譲らないで生きてみたいよ」という羨望のまなざしが混じっていたのかもしれません。

ジュリーのようにはいきませんが、私たちも自分の人生の「主人公」として、自問自答しながら生きてみたいものですね。

ちなみに、ジュリー騒動の母なりの結論は、

「あんな頑固な男とは結婚できないわね。」

母はしっかり主人公として生きているようです。

祖母の涙

昨年12月に発行した寺報『信友』の巻頭「祖母の涙」を転載いたします。
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平成31年4月末日をもって、「平成」が終了するそうです。次の元号は分かりませんが、来年5月以降に生まれる子たちからすれば、昭和52年生まれの私も、はるか遠い「昭和時代のおじさん」ということになるのでしょうか。

昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御された時、私は小学校5年生の冬休みでした。

前年の暮れから、昭和天皇の容体悪化にともなって、世の中は「自粛」ムード。一方、私はというと、ニュースを見ながら、「下血ってどういうこと?」と父親に尋ねたことを思い出します。父も「今日はかなりの下血だな」などと、他人事のような口ぶり。それくらい、我が家ではのんきに傍観していたものです。

新年を迎え、三が日を過ぎた頃から、風邪を引いてしまった私。結構な高熱でフーフー言っておりました。

近所の医院の診察開始が1月7日ということで、その日は朝一番で母と出かけました。診察が終わって会計を待っている間、患者さんと院長夫人の会話が聞こえてきます。

「今日で昭和も終わりだから……」

テレビをつけないまま家を出てきた母と私は目を見合わせて、

「あれ?」

会計を済ませ、一目散に帰宅しました。

そして、家に戻って見た光景は30年経った今でも忘れられません。

テレビを観ながら、父と祖母が涙を流していたのです。あれだけ下血だなんだと冷やかしていた父。政治のことなど口にしたこともなかったノンポリの祖母。特に、祖母は祖父が亡くなった時も泣いていた記憶がないほど、涙と縁遠い人でしたので、とても戸惑いを覚えました。

「え?なんで泣いているの?そんなに悲しいの?たいして敬ってなかったじゃないさ」と思いつつ、ここは何も言わない方が良さそうだと斟酌した私ですが、大人になり、歴史をかじるようになり、また、父と酒を酌み交わして昔話を聞くようになって、あの光景が腑に落ちるようになってきました。

昭和3年に生まれた父にとって、昭和20年まで天皇は神様であり、青春時代を昭和天皇のために捧げたようなものでした。祖母も、祖父が浅草の寺の住職をつとめていた時代に東京大空襲に遭い、火の海の中、ご本尊をおんぶして逃げ出したといいます。しかし、時代に翻弄され、戦争で散々な目に遭いつつも、昭和天皇に対する感情は憎しみとはなりえなかったようです。

父はよく「今の陛下は戦争を知らないから、どうも認める気持ちが起きない。昭和天皇が俺にとっての最後の天皇なんだ」と口にしていました。戦争、敗戦、復興という苦難の時代を共に生き抜いてきたという思いが、恩讐を超えて、父や祖母の涙に込められていたのもしれません。まさに象徴だったのでしょう。

平成の御代は幸いにして戦争はないものの、阪神大震災、東日本大震災、その他、大規模な自然災害が続発、景気も下降し続けた時代でした。今上陛下もまた、苦難の時代を国民とともに生きる姿を示してこられたように感じます。

次の御代はどのような時代になるか想像もつきませんが、「俺は戦争や大災害を天皇陛下と共に生き抜いたんだ」と涙を流す必要のない平和な時代になることを切に祈ります。

父の執念

8月に発行した寺報『信友』の巻頭「父の執念」を転載いたします。
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施餓鬼法要にお参りいただいた皆様にはお話いたしましたが、春先に母に肺ガンが見つかりました。

そもそもは、喉にデキモノができたために、CTスキャンを受けたところ、たまたま肺に小さな影が写ったというもの。ステージ1のAというきわめて初期のものらしく、耳鼻科の医師も「この段階で見つかるのはラッキーですよ」と言うほどです。
とはいうものの、母の頭には「ガン」という言葉しか残っておらず、私や妻が懇切丁寧に説明をしても、「ガン」と「ラッキー」が結びつかない様子です。「この年で手術なんてしたくない、何もしないでいいわ」と落ち込む母に、一つの光明が差し込みます。

肺がんの診察のため、初めて呼吸器外科を受診した日のこと。大学病院で長時間待たされ、やっと「小川さん、診察室にお入りください」と呼ばれました。担当となるT先生は、年のころは五十歳にさしかかるくらいでしょうか。キリっとした目つきにスッキリした輪郭。歌舞伎役者のような顔立ちに、明るさと気さくな雰囲気をまとい、一目で「この人は優秀な先生だろうな」と思わせます。

T先生は分かりやすく病状を説明し、「早期に発見できて良かったですよ、手術は難しくないので一緒に頑張りましょうね」と握手をして励ましてくれました。

帰り道の母の表情は、それまでと一変、「あの先生なら大丈夫そうね」と明るく話します。以後、診察でT先生に会うたびに、信頼も増していきます。やはりイケメンは何事も得をするのですね。僧侶も医師も、見た目が大事だと肝に銘じた次第です。

さて、運命の手術日、七月十八日がやってきました。九時には病室から手術室に移動します。T先生からは三時間ほどで終わるでしょうと伝えられていましたので、半休をとった姉と二人、待合室で待機です。十二時、まだ出てきません。十三時、まだです。十四時、まだです。いったい何があったのだろうかと不安になりますが、緊急事態であればとっくに連絡が来るでしょうし、とにかく待つしかありません。さすがに出勤しなければと姉が待合室を出た矢先、十五時ちょっと前、手術終了の連絡がありました。

T先生からの説明によると、ガンの切除自体は順調に進んだものの、縫合に時間がかかったとのこと。縫ったところから空気が漏れ出し、縫い直せば、違う部分が破れて、空気が漏れる。そこをつまんでは縫ってを繰り返して、こんな時間になってしまったそうです。どうも母の肺の表面組織が弱かったようで、先生からこんな一言が出ました。

「お母さん、タバコ吸っていました?肺にタバコの斑が出てました。」

思わず、姉と顔を見合わせてしまいました。母はおそらく生涯で一服もタバコを口にしたことはありません。ひとつだけ考えられるのは、四十数年、共に暮らした父からの副流煙。

ことの顛末を聞いた私の妻は、「いつまでもお父さんはお母さんに構って欲しい、忘れないでって想いが伝わるね」と笑いました。ヤキモチ焼きの父のことです。イケメンドクターを手こずらせたかったのでしょう。アッパレとは思いませんが、死してなお父の執念を感じた一幕でした。

母の術後の経過は順調で、秋の彼岸会では元気な姿を信友の皆様にお見せできると思います。皆様もこまめな検診を心がけ、副流煙にはお気を付けください。

お寺はサービス業?

今年の5月に発行した寺報『信友』の巻頭「お寺はサービス業?」を転載いたします。
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春のお彼岸も過ぎた頃でしたか、後輩の僧侶二人と話をしていて、考えさせられたことがありました。

二人のうち、A君は浄土宗、B君は浄土真宗。いずれも山手線の内側にある、立派なお寺を預かる身です。

まず、A君。彼のお寺に墓所がある檀家さんが、「よそで葬儀をしてきたから、戒名をつけて、埋葬させてくれ」と言ってきたのだそうです。

それだけなら、突然の出来事に菩提寺に連絡を取る暇もなく、いわゆる直葬という形を取ってしまったのかもしれません。たまに耳にするお話です。

しかし、聞けば、その檀家さん、二回目なのです。以前にも、安く済ませたいからなのか、信仰心がないからのか、もうお骨にしてしまった後で、埋葬したいとお寺に連絡が。A君は、「お寺の墓地に埋葬できるのは、住職が戒名を授けて、引導を渡した方に限ります」と答えて、四十九日法要の際に戒名を授け、引導を渡して、納骨にたどり着きました。

僧侶側からすると、住職が日々、守っているお墓なのだから、ちゃんと信仰に基づく葬儀を行って埋葬してほしいと思うもの。つまり、一回目は救済措置だったわけです。

ところが、その檀家さんには真意は伝わらず、戒名も引導も埋葬に必要な手続き程度の認識だったのでしょう。二回目も全く悪びれることなく、唐突にお寺を訪ねてきたという次第。お骨の行方を思えばむげに断るわけにもいかず、信仰心は無いであろうその家族にどう理解してもらえばよいか、頭を抱えていました。

さらに悲しいことに、そのお家は古い檀家さんとのこと。世代を経る中で感覚が変わってしまったのでしょうか……。

続いてB君。ある日、墓参に来た家族の一人にこう尋ねられました。

「ここ、ジュースの自動販売機、無いんですか?」

B君が「無料のウォーターサーバーならありますが、自販機はありません」と答えると、その方は家族に向かって、「自販機も無いんだってよ」とあきれたように言ったそうです。B君は「あきれるのはこっちですよ」とぼやいていました。

幸い、私はそのような経験はまだありませんが、どうしてそういう事態が起こるのでしょう。A君もB君も真面目な僧侶です。怠けているからとは思えません。

一つには「お墓ありき」の問題がありそうです。檀家さんの側には、寺・僧侶と関係を築いているという意識が薄く、まず「お墓ありき」なので、住職を霊園の管理人程度に考えてしまっている節がある。だから、霊園の休憩所に自販機があるのは当たり前、「なんでこの寺にはないんだ?」と不満が生まれてしまうのでしょう。

それに加えて、意識がお墓で止まってしまうので、葬儀や法事の意味にも関心がわかないのかもしれません。意味が分からなければ、やる気も起きない、信仰のきっかけも作れないという悪循環です。

A君は「寺をサービス業と思っている人が増えている」と嘆きます。「管理費を出してるんだから、それに見合うサービスを」という感覚で「納骨させろ」と言ってくる。「寺は究極のサービス業」と言うことがありますが、それは人生での苦しい時、悲しい時に心と心を触れ合わせるという意味でのこと。お金の対価としてサービスを提供するサービス業とは一線を画すものです。(もちろん、サービス業に従事されている方は、対価以上の無形のサービスを提供しようと努力されていることは承知しておりますが。)

二人の話を聞きながら、蓮宝寺はお墓が無くて良かったと思いました。お墓が唯一の接点となれば、A君・B君のような問題がいずれ生じる可能性があります。蓮宝寺の場合、多くの信友のみなさんは多磨霊園に墓所があることがきっかけで蓮宝寺と縁を結ばれているとはいえ、私に嫌気が指したら、無理に付き合う必要はなくなります。こちらには、つなぎとめるすべがありません。これはこれで、とても怖い話ですので、なるべく考えたくはありませんが……。

それでは、蓮宝寺を成り立たせてきたのは何だったのだろうと考えますと、人と人、心と心の付き合いです。こんな財産があるでしょうか。墓地も境内も立派な伽藍もない寺ではありますが、大寺院に負けない無形の宝物があることに気付かされます。

究極のサービス業として、これからも信友のみなさまと心を通わせていきたいと肝に銘じた後輩との会話でした。

葬儀屋さんは見ている

立て続けに投稿です。(さぼっていてすみません。)
今年の2月に発行した寺報の巻頭「葬儀屋さんは見ている」を転載いたします。
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巣鴨に駿台トラベル&ホテル専門学校という専門学校があります。ホテル学科、ブライダル学科、エアライン学科、鉄道学科など学校名から想像しやすい学科が並ぶなか、葬祭マネジメント学科なる毛色の違う学科が存在します。葬儀業界に就職を目指す子たちが通うこのコースで、私はこの10年ほど、「仏教の基礎知識」を年2回、教えにいっています。

世の中は狭いもので、教え子の中に、私の妻の親友がいたのです。妻も葬儀の司会をしていましたから、何度も同じ現場で仕事をする内に仲良くなったとのこと。そこで昨年、一緒に食事をしました。

葬儀屋さんというのは、当たり前ですが、たくさんの僧侶を見ています。ピンからキリまでいろいろな僧侶と出会い、助けられたり、困らせられたり。まあ、困らせられることの方が圧倒的に多いそうで、僧侶を見る目が、とてもシビア。そこで、後学のため、いろいろ教えてもらいました。

今はお寺との付き合いが全くない方々が増え、いざお葬式になった時に、僧侶を葬儀社に紹介してもらうのが、半分くらいあるとのこと。葬儀社にとっては、菩提寺の住職が来るお葬式よりも、断然、葬儀社が紹介した僧侶が勤めるお葬式がやりやすいそうです。

どんなところがやりやすいかというと、葬儀社が困ることは一切しないからとの答え。葬儀時間をしっかり守ってくれるし、法話や戒名の説明をちゃんとやってくれて、本当にやりやすいと言います。

葬儀に遅刻をする、お経が下手だったり、戒名がひどい字で書かれていたり、人の目をまともに見ずに、何も話さない僧侶も少なくないとか。そして、そういう僧侶のほとんどが菩提寺の住職と聞いて、驚き、唖然としてしまいました。菩提寺の住職こそ、檀家さんに寄り添ったお葬式を勤め、お話をするものだと思っていました。悲しみのただ中にいらっしゃる檀家さんに、余計な心労をかけず、できるだけ、心を落ち着けて、亡き人とお別れをしてほしいと心がけているつもりの私は、「自分もそうなっているのかな?」と冷や汗。

「菩提寺の住職ってそんなにやりにくいんだ?」と聞くと、「そうですね」と彼女も苦笑い。

お清めの席で住職の周りに誰も座らず、親族同士が「お前、行けよ」、「あなたが座りなさいよ」と押し付け合っているなか、一人さびしくお寿司をつまむ住職を見ていると、「本当にかわいそうで、せつなくなった」とは私の妻。私もそんなほろ苦い経験がないわけではなく、動揺を隠すのに必死です。

では、「菩提寺の住職で良かったことは?」と一縷の望みをかけて聞いてみると、

「住職と喪主さんが親しそうに会話をしていると、この葬儀はうまく行くって思いますね。」

やはり、日ごろからのお付き合いが何より大事なんだなと痛感する言葉です。

さて、今の私は大丈夫でしょうか?

一人でお寿司をつままない住職になれるよう、もっと精進せねばと気を引き締めた教え子との再会でした。

一枚のハガキ

昨年暮れに発行した寺報「信友」の巻頭分のアップが遅くなってしまいました。
かなり時期がずれた内容になってしまっていますこと、あらかじめお詫びいたします。
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浄土宗東京教区にはホームページがあります。教区とは、分かりやすく言えば、東京都内にある浄土宗寺院を束ねる行政組織、都民に対する都庁みたいなもの。(といっても、職員は片手ほどの数で、事務所はほぼ一部屋のサイズですが)

そこには「今月の法話」というページがあり、都内の僧侶が月替わりで短いお話を書いています。私のところにも依頼が来まして、今年の三月に掲載されました。実は、私、依頼されるまでホームページの存在自体を知りませんでした。おそらく、信友のどなたもご覧になったことがないと思いますので、ここに転載させていただきます。

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一人飯で仏教レッスン 

私の寺は境内もなく、お堂らしいお堂もなく、鐘楼もありません。知らない人はお寺と分からずに通り過ぎてしまうくらいの建物です。ですから、除夜の鐘で賑わうことはなく、初詣に来られる人も数軒の檀家さんのみ。毎年、年末年始は、同業者には申し訳ないくらいにのんびり過ごさせてもらっています。

今年の正月ものんびりとしたもの。昨年中に終えられなかった仕事は山積みではあるものの、正月気分というやつで、テレビを見ながらごろ寝をしていました。私が観ていたのは、「孤独のグルメ」という番組の総集編。七時間くらいでしょうか、まとめて一気に放送をしていました。

人気番組ですので、ご存知の方も多いとは思いますが、どういう番組かご説明しますと、主人公は松重豊さん扮する井之頭五郎という独身男性。個人で貿易会社を営んでいる五郎さん、商談等で見知らぬ町にでかけ、一人、美味しいランチを食べるのが大の楽しみ。三〇分番組の半分は五郎さんがただご飯を食べています。一緒に食べる人はいません。いつも一人。そして、五郎さんの心の声がナレーションとなります。「うん、うまい肉だ。いかにも肉って肉だ」「ちょっと早いが腹もペコちゃんだし、飯にするか。」「いいぞいいぞ、ニンニクいいぞ」などなど。

なぜ、私が見入ってしまったのか。もちろんドラマとして面白いというのは大きな理由です。ただ、見ているうちに、こう気付いたのです。

「これは仏教だ!」

五郎さんは、ご飯を食べながら、テレビを観ません。新聞も広げません。携帯電話もいじりません。ただただ、ご飯を食べています。次の予定を考えることもしませんし、さっきの商談を振り返ることも一切しません。ただただ、目の前のご飯のことだけを考えています。いわば、ご飯と向き合い、集中して食べているのです。

では、皆さんはご飯を食べるとき、どうしているでしょうか。テレビに気を取られていないでしょうか。携帯ニュースに目が行ったり、LINEのやり取りに夢中になったりしてはいないでしょうか。ご飯の一品一品、自分の一噛み一噛み、そこから伝わってくる味わいに、しっかり思いをいたしているでしょうか。

仏教では「即今・当処・自己」という言葉があります。現代語にするなら「今、ここ、私」となりますが、今という時間、ここという場所に集中して、自分がなすべきことをなしなさいという意味と思ってください。ご飯を食べながらも他のことに気を取られ、食事自体がなおざりになることは、「今」「ここ」に「私」がいないということです。その点、五郎さんのランチは、まさに、「即今・当処・自己」と言えるでしょう。

私たちは食事一つとっても、なかなか、目の前のことに集中ができません。常に意識はあっちに行き、こっちに行きをしています。正月早々、五郎さんの食べっぷりに仏教の神髄を教えられた気がしました。皆さんも、一人で食事をする時には、仏教のレッスンだと思って、少し五郎さんごっこをしてみてはいかがでしょうか。

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と、まあ、ほとんどテレビの感想のような、法話ともつかない話を書かせていただきました。

誰も読む人はいないだろうと高を括っていましたら、しばらくして一通のハガキが私のもとに。送り主は「東京都 浄土宗檀信徒」とだけ書かれています。難しい法話を避けていたというその方は、「私の寺は境内もなく」の書き出しに思わず目が留まったそうです。境内がなくて良かったと思うのは、掃除の時くらいなものですが、こんなところで役立つこともあるのですね。この法話を読んで、蓮宝寺のホームページもご覧になったそうです。

若干のお褒めの言葉に続いて、こう書かれていました。

「菩提寺との関係に悩んでいます。ちまたであふれる菩提寺と檀家の行き違いのほとんどはコミュニケーション不足が原因だと思います。」

そして、最後の言葉。

「これからの浄土宗をお願い致します。」

すごいことをお願いされてしまいました。一人でも反響があったことに嬉しさを感じるとともに、この方がきっと本当に菩提寺との関係に悩んでいることがつたわってきます。私のような者に光明を見出すほどですから、よほど菩提寺の住職とうまく行っていないのでしょう。

しかし翻って、私はそんなに期待されるほど、信友のみなさんとコミュニケーションが取れているのだろうかと不安も沸いてきます。なるべくコミュニケーションを取りたいと思いますが、みなさんも個々にちょうど良い距離感、付き合い方というものがあるでしょう。どなたにでも、私がずかずかと入り込んでいって良いわけでもなく、なかなか難しいところです。

どうか、みなさまには遠慮なく、「もっと近くていいよ」とか、「これくらいでちょうど良い」とご助言いただければ幸いです。携帯メールやLINEを交換している方もいらっしゃいますし、法事と関係なく一杯やりに行くこともございます。浄土宗を背負って立つ気概は一切ございませんが、蓮宝寺住職として、信友のみなさんの老病死のお悩みを背負う気概はございます。安心して年を取っていきにくい世の中になっていますが、少しでもお役に立てるよう、来年も精進してまいります。

ちなみに、大みそかの夜にテレビ東京で「孤独のグルメ」の特番があるようです。お暇でしたら、仏教レッスンをお楽しみください。

時の過ぎゆくままに

寺報『信友』206号を檀信徒の皆さまに郵送いたしました。巻頭文「時の過ぎゆくままに」を転載いたします。
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つい先日のこと、沢田研二の50周年記念ライブに行ってまいりました。実は母がジュリーファンでして、通常、姉と二人で行っているのですが、今回は私も運転手を兼ねて同行いたしました。

父の存命中は、スーパーへの買い物以外、滅多に外出ができなかった母。父は留守番が嫌い、というよりは、母がいないと不安でしょうがない人でした。それでも、普段、自分に尽くしてくれている母に少しは申し訳ないと思っていたのでしょうか、ジュリーのライブだけは、渋々許していました。毎回、「あんなおかま野郎のどこが良いんだか」と負け惜しみ(?)を言いながら、送り出すのが常でした。

ジュリーといえば、化粧をした男性タレントの先駆けですから、昭和ひと桁生まれの父からすると「おかま野郎」だったのでしょう。私が小さい頃はまだジュリーの全盛期。私の記憶のジュリーも中性的な妖しさ・美しさが際立っていました。

さて、開演が迫ってまいります。会場は満席、ほとんどが50代以上の女性、60~70歳が最も多い年齢層のようです。ジュリーが69歳ですから、ともに人生を歩んできた同志のような感覚もあるのかもしれません。明かりが落とされ、いよいよジュリーの登場です。

スポットライトが照らされ、キラキラしたグリーンのラメ入りスーツをまとったジュリーが現れます。そこにいるジュリーは、白髪の坊主頭に白いあごひげ、顔も体形もふっくら、いや、ぶくぶくに近いもの。もはや「おかま野郎」の妖艶さのかけらもない、一人のおじさんが立っていました。しかし、ひとたび歌いだせば、往時をしのばせるどころか、全盛期よりも深みと迫力のある歌声で会場を熱狂させるのです。あちらこちらから「ジュリーッ!」と年季の入った黄色い声。78歳の母もノリノリです。

あれだけ美のシンボルとされてもてはやされたジュリーが、今、これだけ外見に無頓着でいるということは、ただの怠け者ということではないはずです。歌声を聞けば、努力を怠っていないことは明らか。外見だって努力次第でなんとかなるでしょう。若さや美を保つために、整形手術をしたり、美容に高額なお金をかけたりするのが当たり前な芸能界にいながら、それに迎合しない。テレビには積極的に出演しないけれども、毎年、ライブツアーは欠かさず、歌声を全国に届ける。歌手として必要なことだけを追い求めるジュリーには深い哲学を感じました。

余計なものは捨て、本当に必要なものだけに力を注ぐ、流行りの言葉でいえば「断捨離」でしょうか。そして、「時の過ぎゆくままに、この身をまかせ」と歌を地で行くその姿に、諸行無常のことわりを思ったのでした。

~後日談~

ジュリーのライブの2日後の朝、私が台所に行くと、母があおむけで倒れています。聞くと、目が回って起き上がれないとのこと。慌てて♯7119(救急相談センター)にかけて、事情を説明すると、すぐに救急搬送が必要と言われ、救急車にて病院に搬送されました。CTも心電図も異常はなく、担当医は耳が原因でしょうとの診断。

翌日、退院し、その足で耳鼻科にて診察と相成ります。すると、先生は「最近、寝不足とか、興奮したことありました?」と質問。ジュリーのライブに行ったと答えると、「それだよ、それ!」と大笑いです。高齢者が興奮したり、寝不足になったりすると、自律神経が乱れて、耳のリンパ液のバランスが悪くなり、めまいが起こることがあるそうで、まさに年寄りの冷や水というもの。もちろん、父の介護・葬儀、私の挙式などでの疲労の蓄積があっての今回のめまいではありますが、ファンを病院送りにしてしまう、ジュリーの未だ衰えぬスター性に脱帽です。

ただ、ライブに行ってはダメということではなく、ライブの夜はゆっくり湯舟につかり、よく寝れば良いようです。信友の皆さまも、体力と相談しながら、人生をエンジョイされますように。

会うは別れの始め

ずいぶん時間が経ってしまいましたが、寺報『信友』205号を檀信徒の皆さまに郵送いたしました。巻頭文「会うは別れの始め」を転載いたします。
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三月のお彼岸の法話でもお話しましたが、昨年十月に入籍をした時のことです。(※)
多くの人はバラ色の人生を思い描いて、幸せの絶頂になるのでしょう。しかし、私がまず思ったことは、「いずれ、どちらかが喪主をつとめるんだなぁ」というもの。決して暗い気持になったわけではありません。責任の重さというのか、一人の人生を預かり、自分の人生を預けるということを実感したのです。
もう一つ思ったことは、「妻の親族に不幸があれば、私も遺族になるんだなぁ」です。家族が増えるということは、遺族になる可能性もその分増すわけです。当たり前といえば当たり前なのですが、自分でも「なんでこのタイミングで?」と不思議な気持ちでした。
一般の友人に今挙げた二つのことを話すと、「なんでそんなこと思うの?」と不思議がられます。我ながら、変わっていると思いました。きっと職業病というものなのでしょう。常に「死」というものを考えてしまうのです。人生、思い通りにはいかない、良いことばかり続くわけがないと、どこかで冷めて見ているのが習性。
ところが、知人の牧師は、「それは良いことですよ」と言ってくれました。なぜなら、「結婚とは入籍や挙式の時をいうのではありません。それは始まりに過ぎないのです。死別にしろ、離婚にしろ、その時に結婚は完成するのです。だから、喪主の想像をすることは、間違いではありません」と。結婚については一日の長があるキリスト教だけあり、なんだかとても説得力のある言葉です。親族との付き合いだって、死別によって完成するとも考えられますね。
愛別離苦とは、私たちが生きているうえで避けられない苦しみの一つ。字の通り、愛する人と必ず別離をしないといけない苦しみ。お釈迦さまが二六〇〇年前に言った言葉です。
結婚に限らず、私たちはどこかで誰かと出会い、友達として、仲間としてお付き合いをしていきます。家族・親族もしかりです。そして、信友のみなさんもしかりです。蓮宝寺をご縁として、住職と檀家さんとしてお付き合いをさせていただく。でも、そのお付き合いには、必ず「別れ」が潜んでいます。別れによってお付き合いが完成するのだとすれば、しっかり完成させたいものです。どんな完成がやってくるか分かりませんが、信友の方が亡くなれば、私はしっかりとお見送りをさせていただきたい、私が亡くなれば、見送りに来ていただきたいと思います。その時、「いい住職だったね」と言ってもらえるような人間になっているのだろうか。わが身を振り返り、気を引き締めます。
あ、妻にも「いい旦那だった」と思ってもらえるようにしなければ……。
(※)住職、昨年10月に結婚いたしました。

震災七回忌にあたり

寺報『信友』204号を檀信徒の皆さまに郵送いたしました。巻頭文「震災七回忌にあたり」を転載いたします。なお、『信友』に記しましたが、春の彼岸法要は3月18日におつとめいたします。
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この三月で東日本大震災から七回忌となります。六年が経った今でも、あの日あの頃の記憶が鮮明によみがえる方は多いのではないでしょうか。私もその一人です。
震災から二週間ほど経って、私は岩手県の大槌町に入りました。知人のNPO関係者や僧侶に声をかけられ、お弔いのボランティアに参加したのです。誰にも弔われずに、土葬されるご遺体を少しでも慰めるため、という趣旨でした。
遺体安置所となっているいくつかの体育館をまわり、無数のご遺体を前に僧侶五人で般若心経を唱えました。(曹洞宗の多い地域だから、般若心経に馴染みがあるという話でした)
おそらく、私が死ぬまで、そこで見たこと、嗅いだ匂い、感じた思いは忘れられないことでしょう。
整然と体育館の床に並べられた遺体の多くは、シートや専用の袋にくるまれています。大槌町では津波の後に大火災が発生。そのため、焼け焦げた腕がシートからはみ出してしまっている遺体も見えます。棺に納められた遺体は身元が分かったということなのでしょう。ペットボトルの飲み物やお菓子が供えられています。
特に、思い出される光景があります。安置所の受付には、各遺体の特徴が記されたファイルが置いてありました。もしかすると写真も貼ってあるのかもしれません。家族を探す人は、そのファイルをもとに、該当する遺体がないかを調べるのです。この安置所になければ、他の安置所をまわるのでしょう。私たちがいる、たかだが十分か二十分の間にも、かわるがわるファイルを見に来ては、肩を落として帰っていかれました。
どんな気持ちでファイルをご覧になったのか、今でもわが身におきかえて、想像することがあります。二週間が経っていますから、生存の望みは持てないはずです。とはいえ、ファイルに愛する家族が載っていれば、悲しくないはずはありません。どこかで生きているかもしれないというかすかな希望は消え失せ、死んでしまったという事実を突きつけられることになるのですから。
一方で、一刻でも早く、しっかり棺に入れて、供養してあげたい。姿・形は変わっても、自分たちの元に帰ってきて欲しい。冷たい、苦しい思いをして亡くなったあの人を、あの子を、早く楽にしてあげたい。そんな悲しく、せつない思いが交差していたのではないかと想像します。
亡くなられた方々は、間違いなく阿弥陀さまが救ってくださる、と私は信じています。しかし、あのご家族たちは、その後、どうされたのか、心は安らかになられたか、気がかりでなりません。亡き人を心穏やかに偲べるようになるまでの時間は人それぞれ。衣食住が整い、支えてくれる家族や友達があってこそ、時の流れが心に癒しをもたらしてくれるといいます。
六年の歳月が少しでもご家族の心の安穏につながっていることを心から願います。

最後の仕事

寺報『信友』203号を檀信徒の皆さまに郵送いたしました。巻頭文「最後の仕事」を転載いたします。
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早いもので、間もなく父が遷化して、一年が経とうとしています。
昨年十二月十四日の早朝に父は息を引き取りました。私、その日の昼に大学で仕事が入っていました。それは、お寺の奥さんたちにグリーフケアについて話すというもの。
グリーフケアというのは、喪失の悲嘆、特に死別の悲しみをケアすることをいいます。ピンチヒッターを誰かにお願いしようかと思いつつも、母も姉も、「お父さんだったら、仕事に行ってきなさいと言うはずだから」と背中を押してくれたので、出勤と相成りました。
「実は今朝、父が亡くなりまして……」なんて言うと、皆さんが動揺してしまうだろうと思って、何も言わずに淡々と話します。「亡くなってしばらくは、その人がもういないという現実になかなか馴染めないものです」とか、「喪失感は心身にいろいろな形で表れてきます」などと講義するわけですが、妙な気分になったことを覚えています。なにせ、一番の当事者が私なのですから。
現実感がないというか、数時間前に父親が亡くなった私、葬儀の準備や連絡を早くしないといけない私、死別の悲しみについて講義している私、それらがバラバラで夢の中を漂っているような感じでした。
その三日後の十七日、再び大学で仕事です。オープンカレッジ(一般の人向けの講座)で「葬儀・葬送の基礎知識」の講義を、通夜を翌日に控えた私がするという、これまた悪い冗談のような仕事。しかし、その頃は無感情で、ただただ無我夢中、目の前に山積みになった、やらなければならないことをひたすら片付ける、そんな毎日でした。
密葬が終わっても、ひと息つく暇もなく、二月の本葬の準備です。不思議なことに、ふりかえると一月、二月の記憶が結構抜けています。たとえば、夏頃になって、「あっ!税務署に出す法定調書、忘れてた!」と大慌てしたものの、調べるとちゃんと出しているのです。だけれども全く記憶にありません。記憶力が低下していたのか、機械のように働いていたのか、我ながら、よくやっていたなと思います。
やっと本葬が終わり、今度は気が抜けたのか、3月から5月くらいまではずっと体調不良。風邪→胃腸炎→一週間の健康→再び胃腸炎→風邪、そんな日々でした。
秋の彼岸くらいになると段々生活にも慣れてきて、父のことをゆっくり思うことも出てきました。親父だったらきっとこう言うだろう、こう思ってくれるだろうと、思い出を頼りに想像します。ああ、これが亡き人と会話をする、偲ぶということなんだなとあらためて実感しています。
こうして一年を綴ってきましたが、これ、全部、私が十二月十四日に話していたことなんですね。無感覚、記憶力の低下、体調不良、故人との語らい。家族と死別をした人によくあらわれる過程なのです。今までどこか他人事として話していたことが、我が事となった一年だったのかもしれません。
死んでいくということは子どもへの親の最後の仕事とも言いますが、父もまた死によって私に多くのことを教えてくれたようです。