黙祷の思い出

寺報『信友』231号の巻頭「黙祷の思い出」を転載いたします。
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猛暑だったり、台風が来たりと、ちょうどいい天気がない夏ですね。みなさん、体調崩されていないでしょうか。

今年は戦後78年、8月15日は78回目の終戦記念日でした。大学院時代、戦前の政治と宗教の研究をしていたこともあり、毎年8月15日には、靖国神社に(参拝ではなく)観察に行っていたのですが、小泉首相や安倍首相が公式参拝しだしたあたりから、静かに追悼する場ではなく、騒々しいキナ臭い場に変わってしまい、行く気が失せてしまった私。いつしか、8月15日は特別な一日ではなく、三百六十五分の一日に変わっていました。

そんなことを思いながら、今年の終戦の日のニュースを見ていて、ふと思ったことがありました。

「我が家はいつから黙祷しなくなったんだろう?」

私が小さい頃の我が家は、8月15日の正午になると、テレビの甲子園中継をつけながら、高校球児とともに、黙祷していたものです。物心ついた頃にはそうするのが当たり前と思っていましたし、おぼろげな記憶では大学生くらいまでは、家族そろって黙祷していました。

黙祷の後には、だいたいこんな話がくりひろげられたものです。

明治39年生まれの祖母は、当時住んでいた浅草の寺が空襲で焼けてしまい、ご本尊をおぶって逃げたこと。

昭和3年生まれの父は、空襲のあとに墨田川の死屍累々をみたこと。神宮外苑の学徒動員の出陣式を見に行ったこと。あと一年戦争が長引いていたら、自分も招集されていたこと。青山墓地でデートをしていたら憲兵に見つかって追いかけられたこと。

昭和13年生まれの母は、近所の神社で出征兵士を見送って、万歳三唱をしたこと。両親の郷里・長野に一家で疎開したこと。空襲・戦災のどさくさに紛れて自宅を奪われないように祖父だけが人形町にとどまったこと。疎開先で澄み渡る青空のもと、みんながラジオの前に呼び出され、玉音放送を聞かされたこと。内容は分からなかったが、大人たちが泣いていたこと。

みんな、このように戦争を体験し、記憶に刻まれているからこそ、終戦の日に黙祷をすることは当たり前だったのでしょう。

今思うと、これは私にとって、間接的な戦争体験だったのかもしれません。戦争を経験していないけれど、直接体験した家族の話から、戦争は嫌だという感覚はしっかり植え付けられたと思います。

しかし、祖母も父も母もこの世を去り、私もいつしか黙祷をしなくなっていました。

昨年末、「徹子の部屋」にタモリさんがゲストに出た際、黒柳徹子さんに「2023年はどんな年になると思います?」と聞かれ、「新しい戦前になるんじゃないでしょうか」と答え、話題になりました。

もう戦争をハッキリ記憶している人は80代半ばになろうとしています。家族からあれだけ戦争体験を聞かされた私も、黙祷を失念してしまっています。そんなことでは、我が子に戦争は嫌だと伝えるのは心もとない。

ロシアのウクライナ侵攻では、双方に10万人ともいわれる死者が出ているのだとか。10万はたんなる数字ではありません。一人ひとりの人生があり、嘆き悲しむ家族がいるはずです。それなのに、テレビではゲームのようにロシアやウクライナの映像を流して、ドローンだミサイルだと解説をしています。私たちもどこか他人事のようです。

戦争の悲惨さを忘れてしまえば、「新しい戦前」はすぐそこにやってくるでしょう。ごく身近に戦争の苦しさを伝えてくれる家族がいたありがたさを、あらためてかみしめ、戦争は嫌だということを、子供たちに伝えていきたいと思った夏でした。

キサーゴータミーのお話

寺報『信友』230号の巻頭「キサーゴータミーのお話」を転載いたします。
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お釈迦様の説話は数えきれないほどありますが、キサーゴータミーのお話はご存じの方も多いかと思います。

キサーゴータミーというのはあるお母さんの名前です。やっと歩けるくらいになった男の子がいたのですが、病で亡くなってしまいました。2500年も昔のインドですから、幼くして亡くなる子どもも多かったことでしょう。

キサーゴータミーは我が子の死を受け入れられず、道行く人々に「この子の病を治す薬を知りませんか?目を覚まさせるお薬はありませんか?」とすがります。死んだ子を生き返らせる薬などあるはずもないので、みんな、困り果てるばかり。ある人が、「お釈迦様のところにいけば、お薬を出してもらえるかもしれない」とキサーゴータミーに教えてあげました。

キサーゴータミーは我が子を抱えて、お釈迦様のもとに。「どうかこの子を治すお薬をください」と懇願するキサーゴータミーに、お釈迦様は「よろしい。それでは、町に行って芥子の実をもらってきなさい」。「そんな簡単なことでよいのですか?」と尋ねるキサーゴータミーに、「ただし、今まで誰も死んだ者のいない家からもらって来なければいけません」とお釈迦様は伝えました。

一目散に町に向かったキサーゴータミー。一軒一軒、「この家では誰も亡くなっていないでしょうか?」と尋ねます。

「うちは十年前におじいさんを亡くしたよ」
「去年、母を亡くしたばかりだ」
「先日、うちも子ども亡くしたんだ」
「あなたの気持ちは分かるが、世の中、生きている人より死んだ人の方がはるかに多いんだよ」

どの家にも死んだ人がいます。それでも、諦めきれないキサーゴータミーは必死に歩き回ります。しかし、一向に芥子の実は手に入りません。ついに気力も体力も尽きたキサーゴータミ―は、冷たくなった我が子を抱いてお釈迦様のもとに帰ります。

「芥子の実は得られたか?」と問うお釈迦様に、「死者を出していない家など一軒もありませんでした。人は皆、必ず死ぬことが分かりました。我が子が死んだことにようやく気が付きました」と泣き崩れるキサーゴータミー。

そして、キサーゴータミーはお釈迦様の弟子となり、生死を超える道を目指したのだそうです。

どうしてキサーゴータミーは我が子の死を受け入れられたのでしょう?一般的には、キサーゴータミーは「人は必ず死ぬ」という真理を知ったからだ、お釈迦様はその真理を分からせるために芥子の実を死者を出したことのない家からもらうように命じたのだと解釈されます。

仏教の原理からいえば、その解釈はたしかに妥当なんですが、私はちょっと違う見方をしています。

キサーゴータミーは何度も「我が子が目を覚まさない、冷たくなってしまった」と話したことでしょう。そして、町の人々はその子が生き返らないことを察しながら、「それはつらいことですね」と言葉をかけてくれたでしょう。

「去年、母を亡くしたばかりだ。まだ寂しいよ」
「うちも子どもを亡くしたんだ。それはそれは悲しかった」

そんな会話もあったかもしれません。

キサーゴータミーも、「人は必ず死ぬ」ということくらいは知っていたはず。でも、まさか我が子がこんなに早く旅立つとは思ってもいず、頭と心がバラバラに、ぐちゃぐちゃになってしまったのではと推察します。

キサーゴータミーは、たくさんの人に心情を吐露し、そして言葉をかけられ、相手の経験も聞くなかで、次第に我が子の死を受け入れられる心の状態になったのではと私は思うのです。それは、昨年、母が亡くなった時、多くの信友のみなさまにご弔問いただき、話し、話されるなかで私自身が癒された経験からも、強く思うことです。

今回の施餓鬼法要では、いつもと趣向を変えまして、前半が私の法話、後半にゲストにお話いただくことにいたしました。

お招きするゲストの神藤有子さんは、府中市内で訪問看護師として勤務するかたわら、遺族の集い「つきあかり」の主催者でもあります。大切な人を亡くした方々が、安心して寂しさ、悲しさを話せる場所を提供されています。それは、いわば、現代におけるキサーゴータミーの救いの場所かもしれません。

私たちは誰もが愛する人を失い、必ず遺族になります。在宅医療や遺族の集いの現場から神藤さんが気づいたこと、学ばれたことを教えていただき、私たちの生きる智慧としたいと思います。

亡き人のために骨を折る

寺報『信友』229号の巻頭「亡き人のために骨を折る」を転載いたします。
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早いもので2月5日に母の一周忌を迎えました。十分に見送れたという実感があるおかげなのか、二児の育児に追われているだけなのかは分かりませんが、この一年、悲しさや喪失感に襲われることなく、母の話題はだいたい笑い話。ありがたいことです。

一周忌法要は親しい僧侶三人に勤めてもらい、参列はごく身内と総代さんのみのこじんまりしたもの。とはいえ、当日を迎えるまで、返礼品や会食会場の手配、御礼の額に頭を悩ませ、当日は当日でてんやわんやの忙しさ。

信友のみなさんも、親族との日程調整や諸々の手配で骨を折られて、法要にお越しになられるのだと再認識しました。

コロナもあり、近年は法要の簡素化、簡略化が進んでいると言われますが、一方で「死者の復権」なんていう言葉もあるのだとか。

私たちは生きている人の都合を優先して、亡き人の悼まれる権利を侵害しているのではないかという議論のようです。「権利」なんて聞くと、小難しそうですが、たしかに、昔に比べると、亡き人よりも生きている人の都合を優先するようになっているのかもしれません。

かつては、家族が亡くなれば、自宅で安置。家を留守にはできません。忌引きをとって、遺体の番をします。通夜は夜通し故人のそばで過ごし、葬儀が終わっても、四十九日まで七日ごとに自宅で法要をつとめていました。息を引き取ってから、少なくとも四十九日まで、家族は故人を中心とした時間を過ごしていたんですね。

それに比べて今の葬儀全般を見ると、生きている人の都合が優先され、故人はないがしろにされているという指摘もあながち間違っていないように思えます。

ただ、そうせざるをえないのが今の社会なんですよね。この世にいない人のために、時間を割かせてもらえない。できることなら、遺体と一緒に過ごして、ゆっくり思い出話に花を咲かせたいけれど、時間がない。火葬場が混み過ぎて忌引きが足りない現実もあります。

昨年、母が亡くなってから葬儀までの10日間を弔問期間としました。葬儀社さんからは、「10日間もずっと来客の対応をしなければならないですよ」と心配されました。たしかに、何時に弔問にお見えになるか分からないですし、臨終までの経緯を何十回も話しましたから、疲れはしました。ただ、嫌な疲れではなく、むしろ贅沢な時間を過ごせたなと思っています。

10日間は、まさに母を中心にした生活でした。そのおかげで、遺体との別れも穏やかにできました。この一年、穏やかに過ごせたことの一因かもしれません。寺の人間だからこんなことができたと思います。大学が休みに入っていたことも幸いでした。

法事や葬儀というのは、準備段階も含めて故人を中心とした時間です。自ずと亡き人とのつながりを感じ、亡き人と出会う時間でもあります。みなさんが、お仏壇やお墓に手を合わせる時間がまさにそうですよね。

母の一周忌を経て、みなさまにも亡き人との時間を大切にしていただきたいとあらためて思います。そして、こんなご時世でも、ご葬儀、ご法要をしっかりつとめようと骨を折ってくださる、そのお気持ちに応えられる儀式をしなければと改めて気を引き締める次第です。

最初で最後の旅

寺報『信友』228号の巻頭「最初で最後の旅」を転載いたします。
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この原稿を書いているのは11月27日。ちょうど1年前、私は母と姉と3人で信州を旅していました。

10月の後半、悪性リンパ腫の治療を断念し、在宅緩和ケアに移行すると、思いのほか母は元気になりました。闘病中から、ことあるごとに長野県東御市にある両親の墓参りに行きたいと行っていた母。この調子なら、墓参りに連れていけるのではないかと考えた姉と私は、在宅医療の主治医に相談します。

すると、「行けるうちに早く行った方がいいです。今の状態からよくなることはないですから」との返答。それなら善は急げと、宿を手配。身体に負担がかからないように、レンタカーで大き目の車も手配します。驚いたのは、今は在宅医療の連携が進んでいて、宿泊先に吸引用酸素の機械を設置しておいてくれるんですね。

出発が近くなり、一つ気がかりだったのは、旅の途中でお迎えが来たらどうしようということ。なにせ緩和ケアに移行していますから、いつどうなってもおかしくない状態です。それを主治医に尋ねますと、

「宿でそうなったら医療機関に行かざるをえませんが、もし車の中でそういうことになったら、とにかく家まで帰って来てください。家に帰りたいと切望していたお母さんが、見知らぬ土地の病院で亡くなることになってしまいますから。もし、検問で警察に捕まったら、私に電話をしてください。事情を説明します」と心強い言葉をくれました。

おかげで一泊二日の旅行中に心臓が止まることもなく、温泉にも入ることができ、母も大満足をしてくれました。両親の墓に涙を流しなら手を合わせていた姿が思い出されます。

実は母との旅行は人生で初めてでした。中学受験の日に大雪が降ったため、都内のホテルに一泊したことが唯一の母との外泊で、それ以外に旅行らしい旅行は皆無だったのです。

家族旅行は、いつも父・姉・私の3人。母はいつも留守番でした。訃報の電話がいつかかってくるか分からないので、寺を空けてはならないというのが昔の寺の常識。意地悪な祖母に留守番を頼むのも嫌だったのでしょう。

父の没後、母にも自由が訪れ、姉と年に何回か旅行に出かけるように。一方、妻帯した私は妻とは旅行に行きますが、母と旅行することはありませんでした。

いざ、在宅緩和ケアとなり、母の死を意識せざるを得なくなると、一度も家族旅行をしなかったことが心残りに感じられるようになりました。ずっと一つ屋根の下で暮らし、一緒にいた時間はとても長いのですが、「家族旅行」という、世の中の「当たり前」を、私は経験してみたかったのかもしれません。そして、寺に嫁いだばかりに自由な生活を送れなかった母に、最後に人並みの「家族旅行」を味わって欲しかったのかもしれません。

信州の墓参り旅行は、母の願いをかなえる旅でしたが、私の願いをかなえる旅でもありました。

自分や大事な人の人生の終わりを意識した時にはじめて気づく「願い」というものもあるようです。みなさんの願いはどのようなものでしょうか?

よろしく醒覚すべし

寺報『信友』227号の巻頭「よろしく醒覚すべし」を転載いたします。
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七月の施餓鬼法要のご報告をしたばかりのような気がしておりましたが、もう秋のお彼岸のご案内の時期になり、慌てて筆を執っております。遅くなり、申し訳ありません。

年齢のせいなのか、最近、時間が経つのがあっという間。恥ずかしながら、「ああ、何もしないまま今日が終わってしまう……」なんていう日もあります。小さい頃は、一日が長く感じられたのですが、親はこんなに短く感じていたのですね。

子供と大人の時間の感じ方が違うのは当たり前といえば、当たり前。生後三か月の息子を見ていて思うのは、この子の人生にとって今日は九十分の一日、ひるがえって四十五歳の私にとっては一万六千四百二十五分の一日。密度も鮮度も違う。早く感じるわけです。

だからといって、大人の私は無為に過ごして良い、というわけではありません。今日という日は私にとっても息子にとっても一分の一日でもあります。

修行道場の朝は、次の警覚偈(きょうかくげ)というお唱えから始まります。

敬白大衆
生死事大
無常迅速
各宜醒覚
慎勿放逸

目覚まし当番の修行僧が、
「敬って大衆に白(もう)す、生死事大(しょうじじだい)、無常迅速、おのおのよろしく醒覚(せいかく)すべし、慎んで放逸することなかれーーー!」
と大きな声で唱えて、柱から吊るされた分厚い木の板を打ち鳴らし、みんなを起こすのです(板にはこの偈文が書かれています)。

二十数年前のもっと寝ていたい私は、この言葉の意味を噛みしめる余裕はなく、ただの苦痛な思い出しかなかったのですが、時間の早さに怖さすら感じるようになると、ぐっと味わえるようになってきました。

「謹んで、みなさんに申し上げます。いかに生き、いかに死を迎えるかは人生の大問題。時間はまたたくまに過ぎ去ってしまいます。
しっかり目を覚ましましょう。無駄に時を過ごすようなことのないように。」

いやぁ、良いことを言っていますね。自分で書いていて、耳が痛くなってきました(笑)

でも、見方をかえれば、毎朝こう言い聞かせないと、怠けてしまうのが人間なんですよね。だから、「このように生きるようにしましょうね」という目標を仏さまが設定してくれているのです。目標があることで、そうできない自分に気づくこともできます。

真面目に考えすぎて、ストレスで寿命を縮めてもいけません。放逸してしまった時には、「今日は無駄に過ごしてしまいましたが、明日は目を覚まして生きます」と気持ちを切り替えれば良いでしょう。

今日という日は、あなたにとって大切な誰かが生きたかった一日でもあります。私の父も母も、今日を生きたかったかもしれません。

亡き人たちの思いを引き継ぎながら、しっかり目を覚まして生きていきましょう。

話すことの効能

寺報『信友』226号の巻頭「話すことの効能」を転載いたします。
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母を見送って4ヶ月、荷物の整理やら手続きやら、まだまだやらなければならないことが山積みで、人を送ることの大変さを実感しています。檀信徒のみなさんもこのような苦労をされながら、四十九日や一周忌を迎えられたのだなあと思う今日この頃。

「あんなに明るいお母さまが亡くなられて、お寂しいでしょう」と気にかけていただくのですが、今は、悲しさや苦しさをほとんど感じることなく過ごすことができています。「自分は薄情な人間だったのかな?」と思うほど。

2021年1月に悪性リンパ腫が再発した時点で、ある程度の覚悟をして1年間過ごしたということもプラスに作用しているでしょう。それとともにありがたかったのは、コロナで制限された中でも、親交のあった檀信徒のみなさまにお別れをしていただき、お話をできたこと。

亡くなってから葬儀までの十日間で六十人近い弔問をいただきました。抗がん剤の闘病から在宅介護、看取りにいたるまでの話を何回話したか分かりません。ご弔問の方からは、「何度も同じ話をされているでしょうに、悪いですね」と気遣っていただくことも。しかし、私の話を何人もの方に聞いていただいたおかげで、今、平穏に過ごせているのです。

みなさんに話しながら、そして、慰めの言葉をかけていただきながら、自分のなかで、母の人生と別れを消化していったように思います。闘病は大変だったけれど、母はいい人生だった、私たち家族もできる限りのことはやってあげられたのだと。

誰にも話さず、心に仕舞い込んだままでいるより、誰かに話した方が心は楽になるもの。誰かに話すことで、つらさは半分に、愛しさは倍になるなんてことも言われます。法事や葬儀の後の会食の大きな意義は、亡き人の思い出を語り合うことにあるのだなと再認識する機会にもなりました。早くコロナを気にせずに、会食ができる社会になりますことを祈るばかりです。

普段は僧侶として、死別間もない檀信徒のみなさまを支えているつもりでいましたが、今回の母の逝去では、檀信徒のみなさまに支えていただきました。あらためて御礼申し上げます。この経験を糧として、今後もみなさまと支え、支えられての関係を築いていければ幸いです。

また会いましょう

寺報『信友』225号の巻頭「また会いましょう」を転載いたします。

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このたび、母・小川貞子(ていこ)の逝去に際して、多くの方にご弔問、供花・ご芳志を頂戴し、誠にありがたく、心より御礼申し上げます。2月16日に近親者にて葬儀を済ますことができました。

母について思いつくままに記してみたいと思います。

母は1938(昭和13)年10月11日、日本橋蛎殻町で9人兄弟の六女として生まれました。下町育ちらしい、快闊で誰とでも打ち解ける性格で、その性格は住職夫人として大いに活かされ、多くの檀家さんの方々と寺檀関係を超えた、心の交流をしていたように思います。情に厚く、檀家さんの訃報があれば涙を流し、枕経や通夜への同行や、個人としての香典を私に託すことも多々ございました。

スポーツなどは全くしない人でしたが、80歳になるまで、ほとんど病気らしい病気をしたことはなく、自転車でずいぶん遠くのスーパーまで買い物に行っていました。自転車といえば、彼岸法要や施餓鬼法要の後には、荷台に数十本の塔婆をくくりつけ、多磨霊園中を立てに回っていました。私が車で運ぶようになってからも、80歳手前まで、私の目を盗んでは出動していました。

1972(昭和47)年に父と結婚するのですが、先々代の住職夫妻は明治生まれで、現代のような優しい舅・姑ではなく、一般家庭から嫁に来た母は寺のしきたりに大変な苦労をしたようです。亡くなる寸前まで、その苦労を語っていましたし、古い檀家さんも「お嫁さんがやつれていてかわいそうだった」とおっしゃりますので、相当な忍耐を強いられたことでしょう。そんな苦労のなかでも、姉と私には常に慈しみ深く、懸命に育ててくれたことは感謝してもしきれません。

父は母がいないと全くダメな人でした。お互いに下町生まれでしたので、よく口喧嘩はしていましたが、落語に出てくるような微笑ましいものでした。喧嘩をしていても、常に父の側にいて、父のわがままをきいてあげる良妻であったと思います。

そんな父を87歳で看取ったのが2015年12月、母は77歳でした。翌年に私も結婚。これまで寺のため、父のため、子のために人生を費やしていた母にも、やっと自由気ままな後半生がやってきたように思いました。姉が年に数回は旅行に連れ出し、大好きなジュリーのコンサートにも気兼ねなく足を運んでいました。

しかし、2018年春、肺がんと悪性リンパ腫が判明。肺がんは手術で無事に寛解、悪性リンパ腫も経過観察ということになりましたが、2020年に入り、悪性リンパ腫が悪化し、数か月のうちに体重が10キロ以上も減少してしまいました。

2020年7月から抗がん剤治療を開始。ここからは、入院治療、自宅療養、そして再発ということの繰り返しでした。もうトータルで何日入院をしていたのか、数えられないほどの日数を病院で過ごしました。抗がん剤の体への負担はもちろんですが、コロナ禍で面会禁止の入院はどれだけ母に寂しさ、心細さを与えただろうかとコロナが憎らしく思えてきます。

2021年9月末からは新薬の抗がん剤にチャレンジするも、副作用が激しく、40度の高熱が数日続く中で、母は主治医に涙ながらに退院を訴えていました。主治医もこれ以上の入院治療は心身共にマイナスが大きいと判断し、10月下旬から在宅緩和ケアに移行しました。

退院当初は歩行もままならず、私たちもこれは年を越せないだろうと諦めの心境でいましたが、家に帰ってきた安心感や孫とのひとつ屋根の下での生活の楽しさが奏功したのか、次第に体力を回復し、一人で入浴ができるまでになりました。11月下旬には、両親の墓参のために信州に一泊旅行、さらに今年の1月7日には国際フォーラムでのジュリーのコンサートにも行けました。

まだまだ元気でいられると楽観していた矢先の1月17日から、発熱が続くようになります。投薬をしてもなかなかおさまらず、訪問医の診立ては「悪性リンパ腫の再発」、「早くて1か月、長くて2か月」でした。一番恐れていた事態になりましたが、長期入院の影響で若干の認知症になっていた母が、自分が重篤な病であることを忘れていたのが、家族には救いでした。死期が迫っている悲壮感はなく、食事量が減り、ただ「眠い」「くたびれた」と言って、横になる時間が増えていきました。

2月4日の午前、お手洗いに行くと下血が確認され、訪問医の緊急診療を受けると、「おそらく解熱剤の副作用による胃潰瘍」とのこと。医師からは、「病院に行き、処置をすれば治る可能性はあるが、再び面会禁止の入院になるし、もう家に帰ってこられない可能性もある。そもそもの体力の低下があるので処置が成功したとしてどれだけ生きられるか保証はできない。処置をしなければ、あと2、3日だろう」と説明を受け、私たちは在宅で看続けることを選択しました。あれほど退院を切望していた母を再び入院させることは、とても酷なことに思えました。

4日の夜、私が1歳半の娘を寝かしつける前に母のベッドサイドに連れていくと、母は「バイバイね」と娘に手を振りました。しっかり意識があるから、まだ大丈夫だと思っていたのですが、それから5時間後の翌5日午前1時半に息を引き取りました。寝たきりになって半日足らず。本当にあっという間の旅立ち、せっかちな母らしいものでした。

そして、「ああ、自分の思った通りに逝ったな」と思いました。母は入院中、「病院はトイレに一人で行かせてくれないのよ」とずっと不満を言っていました。「自分の足で歩いてトイレに行く。下の世話を他人にされるなんて真っ平御免」これが母の譲れない尊厳でした。在宅緩和ケアに移行した当初、トイレに行くにも足元のおぼつかない母に手を貸そうとすると、「大丈夫だから!」と杖で払いのけられたことが思い出されます。4日の午前中まで自力でなんとかトイレに行くことができましたが、午後からは体を起こすことも困難になっていきました。きっと、これから2、3日、オムツになって子供たちのお世話になるなんて私は絶対にイヤよと思っていたはずです。姉と私と妻の三人に看取られながら、母は自分の意志を貫いて旅立ちました。

せめて父の壽命の87歳までは生きて欲しいと願っていましたし、なんで苦労した母がこんな厄介な病気になってしまったのかと運命を恨んでしまうこともありました。ただ、今は、不思議と心残りなく、穏やかな心でいられています。母自身が病気という運命を受け入れ、頑張り切ったのだと思えるからでしょう。母が生き方と逝き方を身をもって教えてくれたような気がしています。

父が亡くなった時には「親父、あなたは幸せ者だったよ」と思いましたが、母が亡くなった今は「母ちゃん、俺は幸せ者だったよ」と思います。偉大な母に感謝の念を捧げます。

母の荷物を整理していましたら、友人への手紙の下書きが見つかりました。父の遺品の万年筆で書いたもので、乱れた字になっていますが、みなさんへのメッセージにも思えて、写真を掲載いたします。

「又いつかゆっくりお話が出来ることを楽しみにしております」

今頃、父をはじめ先に旅立った人たちと再会を果たしていることでしょう。私もいつかゆっくり話ができることを楽しみにしたいと思います。

サンタ菩薩がやってくる

寺報『信友』224号の巻頭「サンタ菩薩がやってくる」を転載いたします。

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今年も残すところ一か月となってまいりました。第6波が危惧されていますが、今年こそは忘年会で杯を上げたい方も多いことでしょう。私もその一人ですので、現在の状況が維持されることを願うばかりです。

さて、年末を迎えるにあたり、妻がある相談をしてきました。娘のためにクリスマスツリーを買ってもいいかと。

「えええっ?」

私の心は動揺を隠せません。なにせ、私の人生の中に、家にクリスマスツリーがあるなんていう経験がありません。祖父は、一般家庭から仏門に入った厳格な僧侶でしたので、クリスマスの「ク」の字でも聞いたら怒る人でした。ドリフターズのクリスマス特番を、テレビの音量を小さくして、ビクビクしながら姉と見ていたものです。なので、クリスマスプレゼントをもらったことも、サンタの存在を信じたこともなく育っている私。

妻も臨済宗の寺の娘なので、てっきり同じ境遇で育ったのかと思いきや、ちゃんとツリーを飾り、サンタさんに手紙を書いて、起きたら枕元にプレゼントがある幼少期だったとのこと。

「へー、お寺でもそんなことするんだ!」と驚嘆する私でしたが、夫婦の会話を聞いていた姉が、「私もそうだったよ」とさらに驚きの一言。

この姉弟の違いは、なぜ生じたのでしょう?

姉が生まれた当時、両親は日野市に居を構えて、祖父と離れた生活をしていました。そこでは一般家庭と同じく、クリスマスが存在していました。姉が四歳の時、私が生まれる直前に寺での祖父母との同居、つまりクリスマスが存在しない生活が始まります。

クリスマスの味を知ってしまっていた姉は、本棚の中に小さいクリスマスツリーを飾り、布でカーテンを作り、ツリーを隠していました。不憫に思った両親も、プレゼントをあげていたみたいです。姉曰く、それはまるで「隠れキリシタン」だったとか。

私自身は、クリスマスがある家庭をうらやましいと思ったこともないですし、疎外感を持ったこともありません。娘にクリスマスはマヤカシだよと教え育ててもいいかなと思っていましたが、「そんなのかわいそう」と断固反対の妻と姉。クリスマスの味を知っている二人からすると、知らない私は「かわいそう」なようです。(姉は、途中で方針転換をされる方が、もっとかわいそうと言っていますが。)

まあ、もはやキリスト教徒以外には、宗教色のほとんどない年中行事となっているクリスマスに、祖父のように目くじらを立てることもないなと思います。妻と姉のように楽しい思い出として語れるのなら、娘にクリスマスを味わってもらうのも悪くありません。

ある僧侶の友人が、「サンタさんは世界中の子供たちを笑顔にするために汗を流す菩薩さまなんですよ」と言っていたことを思い出します。人々の苦を取り除き、楽を与えるのが菩薩さま。たしかに、サンタさんはサンタ菩薩と言っても良いかもしれませんね。

コロナで我慢を強いられた子供たちに、今年もサンタ菩薩が笑顔を届けてくれることを願いつつ、わが家も初のクリスマスツリーを迎えることになりそうです。

人のふり見て

寺報『信友』223号の巻頭「人のふり見て」を転載いたします。

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前号で母の悪性リンパ腫のことを書きましたら、多くの方にお見舞いのお言葉をいただきました。心より感謝申し上げます。

ジュリーのライブで興奮したせいか、リンパがまた動き出しまして、現在、再々発の治療中です。どうも完治しにくいタイプのようなので、これを繰り返していくしかありません。家族一同、そんなに落ち込んではおりません。その点はご安心ください。

何度となく通院、入院に付き添っていて痛感するのは、伝え方の大切さです。

主治医から治療方針の説明を受ける際、こんなことがありました。

主治医のかたわらでメモを取る若い研修医。そのメモは治療同意書というもので、説明後にサインを求められ、控えを渡されます。

入院の手持ち無沙汰に、控えを読み返して、ビックリする母。そこには、「薬が効く確率は20パーセント」と書かれていました。ほとんど治る見込みがないのかと落胆するのも無理もありません。

実際の説明は、「新薬も試してみたいところだけれど、効く確率が20パーセントしかないので、今回は前回と同じ薬にしましょう」でした。耳が遠くなっている母には、主治医の説明が半分くらいしか聞こえておらず、メモを見て卒倒寸前だったのです。

「もっと丁寧にメモしてもらえないものかね」、「医学だけじゃなく国語も勉強してほしいよね」と愚痴をこぼす文系一家の我が家。しかし、同じことは僧侶にも言えるのかもしれません。

医師と患者、僧侶と檀家。どちらも、専門知識(医学・仏教)と特殊技能(手術・儀式)を持つ側が優位に立ち、不安や切実な願いを抱えた人に接するのです。なかなか医師に直接不満を言えないように、私も不満を言われにくい立場にいることを自覚しなければいけません。

「あの人は成仏できているのでしょうか」から、「四十九日には何をお持ちすれば良いでしょうか」まで、私はしっかりお答えできているでしょうか。医師のふり見て我がふり直せと気を引き締めた夏でした。

母はといえば、病室に来る看護師さんたちに例のメモを見せては、「あなた、これどう思う?」と憤懣やるかたない思いをぶつけていたら、若い研修医が毎日顔を出すようになったそうです。患者も言うべきことは言う、それが医師を育てるのかもしれません。患者からの伝え方も大事なんですね。

人生のいろどり

寺報『信友』222号の巻頭「人生のいろどり」を転載いたします。

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5月28日、東京駅からほど近い巨大な建物の前には、検温を待つ高齢者たちの長蛇の列。さて、ここはどこうでしょうか?

大手町の大規模接種会場と思った方。あなたは常識人です。しかし、答えは残念ながらハズレ。

正解は、東京国際フォーラム。沢田研二のコンサート前の様子でした。「こんな時期に?」と思う方がほとんどでしょう。でも、やったのです。

そして、そのコンサートに、82になるジュリーファンの母を送迎してきました。医療従事者の方や自粛生活を徹底している方には申し訳ないのですが、これには訳がありまして……。

実は昨年の春、母が悪性リンパ腫を発症しました。3年前から悪性リンパ腫の疑いがあり、経過観察を続けてきましたが、2月頃より、急激に食欲が低下。50キロ以上あった体重が、数ヶ月で36キロまでに減少します。各種の検査の結果、ステージは4。このままではダメだということで、6月から抗がん剤治療のスタートとなりました。

抗がん剤の投与のために5日間入院、自宅で3週間療養。これを6回繰り返します。副作用は当然あります。なかでも大変だったのは貧血。抗がん剤が骨髄の造血機能を抑制するらしく、回数を重ねるごとに貧血が悪化。四回目の入院からは、輸血をするほどでした。

5回目の抗がん剤投与を終えると、「6回目をやると骨髄の機能が戻らなくなるかもしれないから、5回目で終了しましょう」と主治医。検査の結果、少しリンパ腫は残っているけれど、部分寛解という診断。いやぁ、良かった良かったと家族一同、胸を撫で下ろして年末年始を迎えられました。

ところが、そうは問屋がおろしません。今年1月の半ば、体温が37度を超える日が2日ほど続くと、一気に39度に。酸素量も80%と危険な数値です。

検査の結果、胸に水が溜まっていることによる発熱と低酸素で、原因は悪性リンパ腫の再発とのこと。即入院・抗がん剤治療です。これには母も家族も相当こたえました。予後不良の可能性が高いと言われていましたが、たった2ヶ月半での再発で、ため息しか出ません。

せっかく生え揃ってきた髪もまたツルツルになってしまいましたが、「孫の記憶に残るまでは頑張って生きなきゃ」と懸命に励まし、なんとか全3回の抗がん剤治療を終了。一定の効果があり、今は月に1回の経過観察に移りました。

そんな矢先に、ジュリーのコンサートが決まったのです。ワクチン未接種の不安はありつつも、闘病のご褒美だとチケットを購入。本人も直前まで渋っていましたが、大満足で帰ってきました。

演劇や映画、コンサートなどのエンターテイメントは、コロナ禍のなかで「不要不急」とされ、不必要なものと扱われてきた一年でした。しかし、少なくとも、いつ再々発するか分からない母にとって、ジュリーのコンサートは、生きる喜びを感じ、明日への意欲を得られる、今しかないひと時でした。

仏教では「欲望」はなるべく小さくするよう説きますが、「意欲」を否定するものではありません。そもそも、意欲がなければ前向きには生きられません。3食昼寝付きでも生涯独房だったら、どうでしょうか。人と出会う、音楽を聴く、旅をする、笑い、泣き、感動する。そんな人生の彩りがあってこそ、生きる意欲がわくのではないでしょうか。

この1年、「あそこに行きたい」、「あの人に会いたい」と願いながら、コロナのために叶わぬまま、亡くなられた方も多いことでしょう。お見舞いのない闘病は苦しく、意欲も減退するでしょう。

本当にコロナが憎らしいですね。僧侶が「憎い」なんて言葉を使うべきではないのですが、がん患者の家族となってみて、ご本人や家族の無念があらためて察せられるのです。

限られた時間のなか、些細なことでも願いを叶えてあげたいと誰しも思うもの。「コロナが無ければ……」という後悔をせずに済むよう、ただただ、一日も早い収束を祈るばかりです。

母からは、みなさんに心配をかけるから『信友』には書くなと言われていましたが、ジュリーに会いに行けるまで回復したらご報告しようと思っておりました。今は大工の棟梁くらいの髪の量、体重も少しずつ戻っておりますので、ご安心ください。