寺報『信友』235号の巻頭「次のオリンピック」を転載いたします。
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パリオリンピックが閉幕しました。テレビが一家に一台だった頃に比べると、家族でオリンピックに熱狂する時代ではなくなってしまいましたが、それでも数々の感動の場面がありましたね(虎党の私はタイガースの戦績に一喜一憂の夏でしたが……)。
4年後はロサンゼルスと聞いて、1984年(昭和59年)のロス五輪を思い出しました。私の記憶の一番古いオリンピックがそれなのです。
私は当時7歳でした。体操の森末・具志堅、柔道の斉藤・山下の金メダル、カール・ルイスの四冠は鮮明に覚えています。そして、もう一つロス五輪で忘れられない光景があります。
おじいちゃん子だった私は、祖父と一緒にテレビで閉会式を見ていました。「4年後はソウル……」というアナウンスを聞きながら、祖父は「おじいちゃん、次のオリンピックは見られないかもしれないなあ」とつぶやいたのです。
私にはまだその言葉の意味が分りませんでした。でも、弱いところを見せることなどなかった明治生まれの祖父が、珍しく寂しそうにしていたので、記憶に焼き付いているのでしょう。
祖父は頑強な人でした。翌年の4月末、私と一緒に入浴中に心臓の痛みを訴え出し、翌朝、着物に着替えて、自分で救急車を呼んで、自分の足で乗り込んで病院に向かいました。診断は心筋梗塞。すぐに危篤状態となりました。
余命数日といわれましたが、11日間がんばって、5月8日に浄土に旅立ちました。
家族も檀家さんも「何の前触れもなく逝ってしまった」と言いました。
当時の男性の平均寿命は74歳、祖父は80歳でしたから、死がいつ来てもおかしくはありません。でも、今、ロス五輪のことを思い返すと、それだけはない何かを祖父は感じていたように思うのです。あの一瞬の寂し気な顔は、一年も経たずに旅立つ自分を予期していたのかも……と。
オリンピックの4年という間隔は、恐ろしくも思えてきます。私の父はロンドン五輪、母は東京五輪が最後のオリンピックでした。慢性腎不全だった父、悪性リンパ腫だった母にとって、「次のオリンピック」はどんな響きを持つ言葉だったのだろう。
誰だって4年後にロス五輪を見られる保障はありません。それでも、4年の持つ重みは人それぞれ。病気の人、健康な人、若い人、老いた人、「あと4年」を簡単だと思う人もいれば、ハードルが高いと感じる人もいるでしょう。
みなさまが、4年後、「またオリンピックを見られた」という日を迎えられますように。住職としてご本尊に願っております