寺報『信友』230号の巻頭「キサーゴータミーのお話」を転載いたします。
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お釈迦様の説話は数えきれないほどありますが、キサーゴータミーのお話はご存じの方も多いかと思います。
キサーゴータミーというのはあるお母さんの名前です。やっと歩けるくらいになった男の子がいたのですが、病で亡くなってしまいました。2500年も昔のインドですから、幼くして亡くなる子どもも多かったことでしょう。
キサーゴータミーは我が子の死を受け入れられず、道行く人々に「この子の病を治す薬を知りませんか?目を覚まさせるお薬はありませんか?」とすがります。死んだ子を生き返らせる薬などあるはずもないので、みんな、困り果てるばかり。ある人が、「お釈迦様のところにいけば、お薬を出してもらえるかもしれない」とキサーゴータミーに教えてあげました。
キサーゴータミーは我が子を抱えて、お釈迦様のもとに。「どうかこの子を治すお薬をください」と懇願するキサーゴータミーに、お釈迦様は「よろしい。それでは、町に行って芥子の実をもらってきなさい」。「そんな簡単なことでよいのですか?」と尋ねるキサーゴータミーに、「ただし、今まで誰も死んだ者のいない家からもらって来なければいけません」とお釈迦様は伝えました。
一目散に町に向かったキサーゴータミー。一軒一軒、「この家では誰も亡くなっていないでしょうか?」と尋ねます。
「うちは十年前におじいさんを亡くしたよ」
「去年、母を亡くしたばかりだ」
「先日、うちも子ども亡くしたんだ」
「あなたの気持ちは分かるが、世の中、生きている人より死んだ人の方がはるかに多いんだよ」
どの家にも死んだ人がいます。それでも、諦めきれないキサーゴータミーは必死に歩き回ります。しかし、一向に芥子の実は手に入りません。ついに気力も体力も尽きたキサーゴータミ―は、冷たくなった我が子を抱いてお釈迦様のもとに帰ります。
「芥子の実は得られたか?」と問うお釈迦様に、「死者を出していない家など一軒もありませんでした。人は皆、必ず死ぬことが分かりました。我が子が死んだことにようやく気が付きました」と泣き崩れるキサーゴータミー。
そして、キサーゴータミーはお釈迦様の弟子となり、生死を超える道を目指したのだそうです。
どうしてキサーゴータミーは我が子の死を受け入れられたのでしょう?一般的には、キサーゴータミーは「人は必ず死ぬ」という真理を知ったからだ、お釈迦様はその真理を分からせるために芥子の実を死者を出したことのない家からもらうように命じたのだと解釈されます。
仏教の原理からいえば、その解釈はたしかに妥当なんですが、私はちょっと違う見方をしています。
キサーゴータミーは何度も「我が子が目を覚まさない、冷たくなってしまった」と話したことでしょう。そして、町の人々はその子が生き返らないことを察しながら、「それはつらいことですね」と言葉をかけてくれたでしょう。
「去年、母を亡くしたばかりだ。まだ寂しいよ」
「うちも子どもを亡くしたんだ。それはそれは悲しかった」
そんな会話もあったかもしれません。
キサーゴータミーも、「人は必ず死ぬ」ということくらいは知っていたはず。でも、まさか我が子がこんなに早く旅立つとは思ってもいず、頭と心がバラバラに、ぐちゃぐちゃになってしまったのではと推察します。
キサーゴータミーは、たくさんの人に心情を吐露し、そして言葉をかけられ、相手の経験も聞くなかで、次第に我が子の死を受け入れられる心の状態になったのではと私は思うのです。それは、昨年、母が亡くなった時、多くの信友のみなさまにご弔問いただき、話し、話されるなかで私自身が癒された経験からも、強く思うことです。
今回の施餓鬼法要では、いつもと趣向を変えまして、前半が私の法話、後半にゲストにお話いただくことにいたしました。
お招きするゲストの神藤有子さんは、府中市内で訪問看護師として勤務するかたわら、遺族の集い「つきあかり」の主催者でもあります。大切な人を亡くした方々が、安心して寂しさ、悲しさを話せる場所を提供されています。それは、いわば、現代におけるキサーゴータミーの救いの場所かもしれません。
私たちは誰もが愛する人を失い、必ず遺族になります。在宅医療や遺族の集いの現場から神藤さんが気づいたこと、学ばれたことを教えていただき、私たちの生きる智慧としたいと思います。