ほとけさまの手のひらで

寺報『信友』238号の巻頭「ほとけさまの手のひらで」を転載いたします。
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今号で同封しましたものは、共同通信社から依頼され、一年間連載したエッセイになります。目立つことが嫌な私ですが、日頃お世話になっている記者から読売新聞や朝日新聞といった全国紙や地元の東京新聞には掲載されないと聞いて、お引き受けいたしました。

掲載紙として送られてくるのは、福井新聞、伊勢新聞、中部経済新聞、奈良新聞、長崎新聞など蓮宝寺と縁もゆかりもない地域の新聞ばかり。おかげさまで、この一年、「読みましたよ」と言われたことは一切無く、何の問い合わせもございませんでした。喜んで良いのか、誰の心にも響かなかったのだから落ち込むべきなのか分かりませんが……。

ちなみに、同封した記事は栃木県の下野新聞のもの。他の新聞は毎月の宗教とこころの特集ページの片隅に載っていたのですが、下野新聞だけは「おくやみ」欄。栃木県内各地の訃報で埋め尽くされた一面に、私のエッセイがひっそりと配置されているのです。地方新聞の訃報欄は閲覧率が高い人気ページですから、それはそれで良い場所だったのでしょう。

こころに少しでも絡めば内容は何でも良いという依頼で、タイトルも私に任されました。いろいろ考えて決まったタイトルが「ほとけさまの手のひらで」。

振り返ってみると、自分の確固たる意思で僧侶になり、今に至ったわけではなく、流されるがままというのが実感です。悩んだり、もがいたりしているのも、すべてほとけさまの手の上で右往左往しているに過ぎないのではないか、そんなイメージです。

なんとか12回絞り出したエッセイですので、普段あまりお見せしていない真面目な一面も出ているかもしれません。「住職はこんなことしているんだ」、「変なこと考えてるものだ」など、お暇な時にでも、御笑読くだされば幸いです。

令和7年 春の彼岸法要ご報告

3月に2度の降雪、しかも彼岸に入ってからの降雪には驚きました。しかし、22日の彼岸法要当日は20度を超えるポカポカ陽気に恵まれました。

今回、私の大学時代の先輩で30年来のお付き合いになります杵屋喜太郎さんに長唄の解説と実演をしていただきました。私の思い付きで企画した長唄講演でしたが、多くの方に興味を持っていただけたようで、47名とコロナ禍以降では最多のご参列をいただきました。三味線の杵屋五之吉さんと二人での演奏は、私もすぐ間近で拝聴し、大迫力ですっかり聞きほれてしまいました。ご参列のみなさまも古典芸能の世界を堪能していただけたのではないかと思います。

法要は虎ノ門・栄立院の福西上人と西調布・光岳寺の内田上人に出仕していただき3人でおつとめいたしました。喜太郎さんの鍛錬した美声を拝聴した直後でしたので、みなさんの耳が肥えている状態での法要にいささか緊張いたしました。僧侶も日々鍛錬が必要だとあらためて自戒した次第です。

なお、施餓鬼法要は7月5日(土)を予定しています。

4月に入り、いよいよ春本番ですね。(今日はものすごく寒いですが)みなさま、くれぐれもご自愛の上、春を楽しまれてください。

化粧室改修について

昨年12月下旬から改修工事が始まり、2月頭に多目的トイレが完成しました。介添の方も一緒に入れる十分な広さがあり、オストメイト対応トイレも設置しております。

今後はこれまでの男性用・女性用洗面所を解体し、3つの個室を新設する工事に入ります。春の彼岸法要までには完了する予定ですが、それまでは多目的トイレひとつだけをご利用いただくことになります。ご不便をおかけしますが、何卒ご了解くださいませ。

 

暗闇と救いの手

寺報『信友』237号の巻頭「暗闇と救いの手」を転載いたします。
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先日あるホテルに泊まった時のことです。

その日は深夜1時から5時まで全館停電のため、料金が安くなるというので、「そりゃ良いや」と思っていました。エレベーターも非常灯も冷蔵庫も全て止まるそうですが、1時から5時まで寝てしまえばいいわけですから。

しかし、そういう時に限って、夜中に目が覚めてしまうんですよね。カーテンを閉め切っていたため、月明かりすら入らず、真っ暗闇。ベッドから降りると、自分がどっちに向かって立っているかも分かりません。目をつぶったり、目隠しをしたりした時の暗闇とは全く違う感覚でした。全く光の無い世界、暗闇に包まれたような感覚です。

仏教では迷いの世界を暗闇の世界と言ったり、私たちの煩悩の源は無明(真理を知らない、つまり明かりが存在しない暗闇)と呼んだり、暗闇をよく使います。一方で、智慧を光で表現したり、阿弥陀如来はその光明で暗夜を照らし、私たちを救ってくださると説きます。暗闇(煩悩、迷い)と光明(悟り、救い)を対比するのです。

私もこうした表現をついつい使ってしまうのですが、ホテルで闇に包まれながら、いやはや真の暗闇とは恐ろしいものだなあぁと感じました。5時になれば明かりがつくと分かっているから良いものの、これが永遠だったらどれほど不安でしょうか。電気の無い古代インドの人たちは、きっとこうした暗闇の不安を体感的に理解し、だからこそ、仏様の智慧や救いを光にたとえたのだと実感しました。

蓮宝寺のお檀家さんに人生半ばで視力を失われた男性がいらっしゃいます。お参りに来られるときはいつも奥さまが寄り添い、親身にお世話をされています。

ある時、私が「奥さまがお優しくて、何よりですね」と声をかけると、そのご主人は、「本当に私にとっては観音様です、ありがたいことです」と感謝を述べられました。

暗闇の中でこのやり取りを思い出した私は、このご主人の言葉は誇張でもなんでもなく、心の底からの言葉だったのだとあらためて感銘を受けました。自分がどこにいるのか、目の前に何があるのか分からない世界で、奥さまは迷える者に救いの手をさしのべる観音様にほかなりません。

私はその奥さまのように信友のみなさまの観音様には到底なれません。せめて、仏さまの教えが、少しでもみなさの暗闇(不安)を照らす光となるよう、お伝えしていければと気を引き締めた夜でした。

ちなみに再び眠りについたのですが、5時に全ての電気がついてしまい、大慌てで電気を消してしまいました。過ぎたるは猶及ばざるが如し。程よい光明がよろしいようです。

2025年初春

みなさま、旧年中は大変お世話になりました。

新年をいかがお迎えでしょうか。

蓮宝寺は他の初詣で賑わう寺社に申し訳ないくらいにのんびりと過ごしております。

元旦は昨年末に妻の実家でついてきた手作り鏡餅をお供えし、一年間の平安を祈る法要をお勤めしました。

みなさまが幸いを感じる時間の多い一年でありますようお祈りいたします。

本年もよろしくお願い申し上げます。

塵を払い、垢を除かん

寺報『信友』236号の巻頭「塵を払い、垢を除かん」を転載いたします。
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11月とはいえ、20度を超える日もあり、先日は多磨霊園での読経中に蚊に刺されてしまいました。一方で、多磨霊園の木々の落ち葉が毎日のように駐車場に降り積もります。本当に秋がなくなり、夏と冬が隣り合っているようで、温暖化を実感させられます。

延々と舞い落ちる枯葉を見ていると、お釈迦さまの一人のお弟子さんが思い浮かびます。それは、周利槃特(しゅりはんどく)というお弟子さん。

周利槃特は兄の摩訶槃特(まかはんどく)に勧められてお釈迦さまに弟子入りしました。兄ははとても頭がよく、お釈迦さまの教えをすぐに理解できたのですが、周利槃特は物覚えが悪く、時々自分の名前を忘れてしまうほど。お釈迦さまの教えを覚えることなど到底できません。

修行仲間にからかわれ、兄にも厳しく咤され、泣いているところにお釈迦さまが現れ「なぜそんなになげいているのか?」と問いかけました。

周利槃特は「自分は愚かで何も覚えられない。もう修行をやめたい。どうしてこんなに愚かに生まれてしまったのか」と吐露します。

お釈迦さまは「悲しむことはない。自分の愚かさを知っている者は愚かではない。自分が賢いと思っている者が愚かなのだ」と励まし、一本の箒(ほうき)と「塵(ちり)を払い、垢(あか)を除かん」という一句を周利槃特に与えました。

それ以来、周利槃特は来る日も来る日も「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら、箒で掃除をし続けました。最初はバカにしていた修行仲間たちも、次第に尊敬の念を抱くように。お釈迦さまも「上達することも大事だが、努力を続けることはもっと大事だ」と周利槃特の姿勢をほめられたそうです。

掃除をし続けること20年、周利槃特はついに悟りました。掃除をしても、すぐに汚れやほこりが生じます。だからこそ掃除し続けることが大事。これは人間の心も同じこと。次から次へと沸き起こる執着や欲望は、いわば心の塵や垢。常に自分の心を見つめて、掃き清める努力が必要なのですね。

さて、我が身を振り返ると、一本の箒ではなく、電動ブロワーを使うというていたらく……。悟りには程遠いようです。

みなさまも年末の大掃除には、「塵を払い、垢を除かん」とお唱えしてみてはいかがでしょうか。

ちなみに、「天才バカボン」のレレレのおじさん、周利槃特がモデルだそうです。

【追記】謎の赤い実

駐車場の落ち葉を掃いていたら、落ち葉の下から何やら大量の赤い木の実が出てきました。形状からするとハナミズキの実のようです。

風に飛ばされて自然とこんなに集まるはずもありません。動物好きの姉の推測では、ネズミのしわざではないかということです。貯食行動といって、食料を集めて隠しておくのだとか。

ここは全然掃除していないから、隠すのにちょうど良いと思われたのでしょうか……。