中外日報に

7月14日付の中外日報に住職の取材記事が掲載されました。
電話で結構長い時間、取材を受けたのですが、記事としてはほんの少し。
記者は一つの記事を書くのに大変な時間を費やしていることに頭が下がります。
中外日報20170714_3面

『愛猫とずっと一緒に、幸せに 長生き猫の暮らしとお世話』

猫も高齢化の時代、いかに猫を介護するか、看取るか、ということに悩む飼い主も出てくることでしょう。そんな人に向けて、住職の姉が『愛猫とずっと一緒に、幸せに  長生き猫の暮らしとお世話』という本を編集いたしました。我が家の猫(17歳)の写真がたくさん掲載されております。高齢猫と暮らされている方、是非、お手元に。
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東京新聞

過日、お知らせいたしました自死者追悼法要ですが、おかげさまで滞りなくお勤めすることができました。当日は72名の参列をいただきました。
法要の告知を兼ねて、東京新聞さんが6月6日付朝刊で記事にしてくださいました。
法要の趣旨が少しでも多くの方々に伝わればと私も取材を受けました。
東京新聞朝刊20170606(PDF)

会うは別れの始め

ずいぶん時間が経ってしまいましたが、寺報『信友』205号を檀信徒の皆さまに郵送いたしました。巻頭文「会うは別れの始め」を転載いたします。
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三月のお彼岸の法話でもお話しましたが、昨年十月に入籍をした時のことです。(※)
多くの人はバラ色の人生を思い描いて、幸せの絶頂になるのでしょう。しかし、私がまず思ったことは、「いずれ、どちらかが喪主をつとめるんだなぁ」というもの。決して暗い気持になったわけではありません。責任の重さというのか、一人の人生を預かり、自分の人生を預けるということを実感したのです。
もう一つ思ったことは、「妻の親族に不幸があれば、私も遺族になるんだなぁ」です。家族が増えるということは、遺族になる可能性もその分増すわけです。当たり前といえば当たり前なのですが、自分でも「なんでこのタイミングで?」と不思議な気持ちでした。
一般の友人に今挙げた二つのことを話すと、「なんでそんなこと思うの?」と不思議がられます。我ながら、変わっていると思いました。きっと職業病というものなのでしょう。常に「死」というものを考えてしまうのです。人生、思い通りにはいかない、良いことばかり続くわけがないと、どこかで冷めて見ているのが習性。
ところが、知人の牧師は、「それは良いことですよ」と言ってくれました。なぜなら、「結婚とは入籍や挙式の時をいうのではありません。それは始まりに過ぎないのです。死別にしろ、離婚にしろ、その時に結婚は完成するのです。だから、喪主の想像をすることは、間違いではありません」と。結婚については一日の長があるキリスト教だけあり、なんだかとても説得力のある言葉です。親族との付き合いだって、死別によって完成するとも考えられますね。
愛別離苦とは、私たちが生きているうえで避けられない苦しみの一つ。字の通り、愛する人と必ず別離をしないといけない苦しみ。お釈迦さまが二六〇〇年前に言った言葉です。
結婚に限らず、私たちはどこかで誰かと出会い、友達として、仲間としてお付き合いをしていきます。家族・親族もしかりです。そして、信友のみなさんもしかりです。蓮宝寺をご縁として、住職と檀家さんとしてお付き合いをさせていただく。でも、そのお付き合いには、必ず「別れ」が潜んでいます。別れによってお付き合いが完成するのだとすれば、しっかり完成させたいものです。どんな完成がやってくるか分かりませんが、信友の方が亡くなれば、私はしっかりとお見送りをさせていただきたい、私が亡くなれば、見送りに来ていただきたいと思います。その時、「いい住職だったね」と言ってもらえるような人間になっているのだろうか。わが身を振り返り、気を引き締めます。
あ、妻にも「いい旦那だった」と思ってもらえるようにしなければ……。
(※)住職、昨年10月に結婚いたしました。