寺報『信友』223号の巻頭「人のふり見て」を転載いたします。
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前号で母の悪性リンパ腫のことを書きましたら、多くの方にお見舞いのお言葉をいただきました。心より感謝申し上げます。
ジュリーのライブで興奮したせいか、リンパがまた動き出しまして、現在、再々発の治療中です。どうも完治しにくいタイプのようなので、これを繰り返していくしかありません。家族一同、そんなに落ち込んではおりません。その点はご安心ください。
何度となく通院、入院に付き添っていて痛感するのは、伝え方の大切さです。
主治医から治療方針の説明を受ける際、こんなことがありました。
主治医のかたわらでメモを取る若い研修医。そのメモは治療同意書というもので、説明後にサインを求められ、控えを渡されます。
入院の手持ち無沙汰に、控えを読み返して、ビックリする母。そこには、「薬が効く確率は20パーセント」と書かれていました。ほとんど治る見込みがないのかと落胆するのも無理もありません。
実際の説明は、「新薬も試してみたいところだけれど、効く確率が20パーセントしかないので、今回は前回と同じ薬にしましょう」でした。耳が遠くなっている母には、主治医の説明が半分くらいしか聞こえておらず、メモを見て卒倒寸前だったのです。
「もっと丁寧にメモしてもらえないものかね」、「医学だけじゃなく国語も勉強してほしいよね」と愚痴をこぼす文系一家の我が家。しかし、同じことは僧侶にも言えるのかもしれません。
医師と患者、僧侶と檀家。どちらも、専門知識(医学・仏教)と特殊技能(手術・儀式)を持つ側が優位に立ち、不安や切実な願いを抱えた人に接するのです。なかなか医師に直接不満を言えないように、私も不満を言われにくい立場にいることを自覚しなければいけません。
「あの人は成仏できているのでしょうか」から、「四十九日には何をお持ちすれば良いでしょうか」まで、私はしっかりお答えできているでしょうか。医師のふり見て我がふり直せと気を引き締めた夏でした。
母はといえば、病室に来る看護師さんたちに例のメモを見せては、「あなた、これどう思う?」と憤懣やるかたない思いをぶつけていたら、若い研修医が毎日顔を出すようになったそうです。患者も言うべきことは言う、それが医師を育てるのかもしれません。患者からの伝え方も大事なんですね。