寺報『信友』219号の巻頭「家族になること」を転載いたします。
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長い梅雨が明けた途端に猛烈な暑さがやってきました。コロナに加えて、熱中症にも気を付けながら、くれぐれも体調にお気をつけてお過ごしください。
秋の彼岸会法要も、今般のコロナ感染状況、三密防止を考慮しまして、参集しない形でお勤めすることにいたしました。今年は、年3回の皆さんにお会いする尊い機会を全て失うことになり、断腸の思いです。ご理解くださいますようお願い申し上げます。
2016年10月に結婚してから、信友の皆さんには、「お子さんは?」と気にかけていただいておりました。のんびり屋の私は、まあ、授かる時に授かるだろうくらいに考えていましたが、年々低下する私の(子育ての)体力を案じる妻。
授かりかかったことはあったのですが、なかなか育つことができず、夫婦で話し合って、不妊治療を受けることに。いろいろと調べ、勉強するなかで、子どもを授かるということがいかに当たり前ではなく、奇跡的なものかということが良く分かりました。同時に苦しみの深さも知りました。
第一段階の治療を一年近くやってみましたがうまくいきません。毎月ホルモンの薬を飲まなければいけない妻はそのたびにだるそうですし、見ている私も胸が痛んだものです。結果が出なければ、お互いに落胆は隠せません。難しさを分かっていても、どうしても期待してしまう欲に苦しみます。
そんななかで、私たちを癒してくれたのは飼い猫のペイでした。2000年の4月、生後2か月で父が買ってきた猫で、今年で20歳、人間でいえば、100歳にならんとする老猫です。
妻は結婚するまで猫を触ったことがなく、動物自体が苦手。結婚したら猫と同居という話をする時も、「もうおじいちゃんだから、もうすぐ亡くなるから」と説得をしたほどです。
しかし、そもそも妻に猫好きの素質があったのでしょう、すぐに妻とペイは仲良しになってくれました。ペイは隙あらば妻に抱っこをせがみ、寝る時は、私と妻の間に入り、妻の布団に潜り込みます。あたかも二人の子どものようで、寝顔に癒されていました。
私たちの会話は、「ペイはどうした?」で始まる毎日。妻がやってくるまでは、「飼っている猫」でしたが、妻のおかげでペイは家族の一員になれたような気がします。
昨年の10月頃、不妊治療に疲れた私たちは、少し休んで、年が明けたら、第二段階(体外受精)に移ろうということに。
お酒が大好きな私たちは、体外受精をすれば、しばらくお酒を楽しめなくなるから、この年末年始は飲み納めだねと杯を交わします。ところが、妻の杯が進みません。お酒が美味しくないというのです。妻の口からそんな言葉を聞くなんて、天と地がひっくり返る出来事です。
だるさもあり、これは何かホルモンの影響かもしれない。正月明けに婦人科に行きますと、
「あれ?妊娠してるね。保健センターに行って、母子手帳を発行してもらってきて」
全く想定外の言葉に、お互いに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてしまいました。嬉しいというより、驚きの方が勝っていたことを記憶しています。気を緩めたのが良かったのか、結果的には不妊治療をお休みした間に授かったようでした。
コロナ禍のさなかの妊娠ということ、また、これまでの経験から、無事に生まれてきてくれるだろうかという不安は、安定期に入ってからも強くありました。
一方で、コロナ禍のおかげで、私の大学勤務もオンラインとなり、妊娠中の妻のそばにずっといられたことは幸いでした。運動を兼ねて、徒歩で1駅、2駅先くらいまで買い物に出かける毎日。つわりでつらそうな妻に寄り添うように、ペイもいつも一緒に寝ていました。
妻は実家のある秋田で出産をすることになり、6月初旬に里帰り。妻の実家には3人を育てた義祖母、4人を育てた義父母がいるので、安心です。
ただ、安心できなかったのはペイで、2週間ほどで背中に大きなハゲが出現。動物病院でいろいろ調べても原因は特定できず、「考えられるのは、奥さんがいないストレスでしょう」という診断。いかに慕っていたかが分かります。私が不在になっても、そんなことは起きなかったはずです。
元々、腎臓が悪く、心臓も遺伝的に悪くなる猫種で、20歳という年齢から、いつどうなってもおかしくありません。7月末から急にぐったりし出し、8月に入ると、自力でトイレもままならず、オムツを使用することに。食欲のないペイのため、料理が苦手な私も、圧力鍋で鶏肉を煮立てて餌を手作り。手で一口ずつ与えるなど、すっかり介護状態。妻も秋田から心配しますが、どうにもなりません。
ところが、ペイの持つ生命力は驚くほどで、数日経つと、自力で歩き、椅子にも登り、数日後には、オムツを外せるまでに回復しました。
そんなペイに安心をしたのか、ペイがオムツを外せた日の夜に妻は破水し、緊急入院。数日前に秋田でもクラスターが発生したため、一切の面会・立ち会いが禁止されるなか、妻は一人で頑張ってくれました。翌日の午後5時29分、3005グラムの元気な女の子を無事に出産いたしました。
私は8月15日から3日間、秋田の実家に行き、娘と初対面。(念のため、自費のPCR検査も受けました。)実際に対面すると本当に小さい。それだけに、いのちの尊さを思います。よくここまで育ってくれたと感謝の念で一杯です。
その顔を見ていると、全ての赤ん坊は邪心なく、澄み切った心で生まれてくるのだろうと思えてきます。その心をどう色づけていくのか、これは親の責任なのだと気が引き締まりました。
16日の夜、姉から電話が鳴ります。「ペイが亡くなった」と。仕事から帰り、夜の餌を上げようとした姉が見たものは、いつもの椅子の上で息絶えたペイでした。
一時期はもうダメだと諦めましたが、持ち直し、この調子だと、妻に再会するまで生きられるんじゃないかと思うほどに元気になったペイ。私はすっかり安心して、秋田に来ていました。
その日の朝も餌を食べ、オシッコも自力で出せていたそうです。死後硬直の具合から、おそらく夕方に旅立ったと姉は言います。
私はとにかく長く苦しむペイは見たくないし、死ぬところも見たくないので、それは姉に任せると冗談半分に言っていました。椅子に登れたということは、死の直前まで動けていたのでしょう。そして、しっかり姉を第一発見者にしてくれました。
猫は死期をさとると言います。妻が娘を産むまでは、私が娘と会うまでは、なんとか生きていようと頑張ってくれたのかなと思います。ペイが亡くなったころ、私と妻と娘は川の字で昼寝をしていました。私たちのショックが小さくて済むように、幸せな時に旅立ったのかもしれません。
家族になること。それは、この上ない喜びです。奇跡的に育まれたいのちとの出会いであり、関係を深く結んでいくこと。
ですが、別れることの恐怖と苦しさも常にあります。妻のおかげでかけがえのない家族となったペイとの別れの悲しさ、苦しさは想像以上でしたが、それだけ関係を結べたからこその副産物と受け止めています。
妻のおかげで出会えた娘とも、いつか別れることになります。順調なら私が先にお浄土に行くでしょう。その時、娘に手を握って、涙を流してもらえるような父親になれるよう、いつ逝っても悔いのないように愛情を注いでいきたいと思います。