亡き人のために骨を折る

寺報『信友』229号の巻頭「亡き人のために骨を折る」を転載いたします。
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早いもので2月5日に母の一周忌を迎えました。十分に見送れたという実感があるおかげなのか、二児の育児に追われているだけなのかは分かりませんが、この一年、悲しさや喪失感に襲われることなく、母の話題はだいたい笑い話。ありがたいことです。

一周忌法要は親しい僧侶三人に勤めてもらい、参列はごく身内と総代さんのみのこじんまりしたもの。とはいえ、当日を迎えるまで、返礼品や会食会場の手配、御礼の額に頭を悩ませ、当日は当日でてんやわんやの忙しさ。

信友のみなさんも、親族との日程調整や諸々の手配で骨を折られて、法要にお越しになられるのだと再認識しました。

コロナもあり、近年は法要の簡素化、簡略化が進んでいると言われますが、一方で「死者の復権」なんていう言葉もあるのだとか。

私たちは生きている人の都合を優先して、亡き人の悼まれる権利を侵害しているのではないかという議論のようです。「権利」なんて聞くと、小難しそうですが、たしかに、昔に比べると、亡き人よりも生きている人の都合を優先するようになっているのかもしれません。

かつては、家族が亡くなれば、自宅で安置。家を留守にはできません。忌引きをとって、遺体の番をします。通夜は夜通し故人のそばで過ごし、葬儀が終わっても、四十九日まで七日ごとに自宅で法要をつとめていました。息を引き取ってから、少なくとも四十九日まで、家族は故人を中心とした時間を過ごしていたんですね。

それに比べて今の葬儀全般を見ると、生きている人の都合が優先され、故人はないがしろにされているという指摘もあながち間違っていないように思えます。

ただ、そうせざるをえないのが今の社会なんですよね。この世にいない人のために、時間を割かせてもらえない。できることなら、遺体と一緒に過ごして、ゆっくり思い出話に花を咲かせたいけれど、時間がない。火葬場が混み過ぎて忌引きが足りない現実もあります。

昨年、母が亡くなってから葬儀までの10日間を弔問期間としました。葬儀社さんからは、「10日間もずっと来客の対応をしなければならないですよ」と心配されました。たしかに、何時に弔問にお見えになるか分からないですし、臨終までの経緯を何十回も話しましたから、疲れはしました。ただ、嫌な疲れではなく、むしろ贅沢な時間を過ごせたなと思っています。

10日間は、まさに母を中心にした生活でした。そのおかげで、遺体との別れも穏やかにできました。この一年、穏やかに過ごせたことの一因かもしれません。寺の人間だからこんなことができたと思います。大学が休みに入っていたことも幸いでした。

法事や葬儀というのは、準備段階も含めて故人を中心とした時間です。自ずと亡き人とのつながりを感じ、亡き人と出会う時間でもあります。みなさんが、お仏壇やお墓に手を合わせる時間がまさにそうですよね。

母の一周忌を経て、みなさまにも亡き人との時間を大切にしていただきたいとあらためて思います。そして、こんなご時世でも、ご葬儀、ご法要をしっかりつとめようと骨を折ってくださる、そのお気持ちに応えられる儀式をしなければと改めて気を引き締める次第です。

人のふり見て

寺報『信友』223号の巻頭「人のふり見て」を転載いたします。

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前号で母の悪性リンパ腫のことを書きましたら、多くの方にお見舞いのお言葉をいただきました。心より感謝申し上げます。

ジュリーのライブで興奮したせいか、リンパがまた動き出しまして、現在、再々発の治療中です。どうも完治しにくいタイプのようなので、これを繰り返していくしかありません。家族一同、そんなに落ち込んではおりません。その点はご安心ください。

何度となく通院、入院に付き添っていて痛感するのは、伝え方の大切さです。

主治医から治療方針の説明を受ける際、こんなことがありました。

主治医のかたわらでメモを取る若い研修医。そのメモは治療同意書というもので、説明後にサインを求められ、控えを渡されます。

入院の手持ち無沙汰に、控えを読み返して、ビックリする母。そこには、「薬が効く確率は20パーセント」と書かれていました。ほとんど治る見込みがないのかと落胆するのも無理もありません。

実際の説明は、「新薬も試してみたいところだけれど、効く確率が20パーセントしかないので、今回は前回と同じ薬にしましょう」でした。耳が遠くなっている母には、主治医の説明が半分くらいしか聞こえておらず、メモを見て卒倒寸前だったのです。

「もっと丁寧にメモしてもらえないものかね」、「医学だけじゃなく国語も勉強してほしいよね」と愚痴をこぼす文系一家の我が家。しかし、同じことは僧侶にも言えるのかもしれません。

医師と患者、僧侶と檀家。どちらも、専門知識(医学・仏教)と特殊技能(手術・儀式)を持つ側が優位に立ち、不安や切実な願いを抱えた人に接するのです。なかなか医師に直接不満を言えないように、私も不満を言われにくい立場にいることを自覚しなければいけません。

「あの人は成仏できているのでしょうか」から、「四十九日には何をお持ちすれば良いでしょうか」まで、私はしっかりお答えできているでしょうか。医師のふり見て我がふり直せと気を引き締めた夏でした。

母はといえば、病室に来る看護師さんたちに例のメモを見せては、「あなた、これどう思う?」と憤懣やるかたない思いをぶつけていたら、若い研修医が毎日顔を出すようになったそうです。患者も言うべきことは言う、それが医師を育てるのかもしれません。患者からの伝え方も大事なんですね。

本堂にお雛様

娘が生まれたということで、私の母が「お雛様を出してあげましょう」と号令を発しました。お雛様は女の子が生まれるたびに新しいお人形を用意し、子どもの身代わりとして災厄をお人形に受けてもらうというのが本来だそうですが、固いことは抜きにして、姉が誕生した時のお祝いのお雛様を出すことにしました。

四十数年前に母の実家から届いた七段飾りのひな人形も、姉が成長するにつれ、飾られることもなくなり、かれこれ三十年以上、本堂の人目に付かない段ボールの中で眠っていました。 おそるおそる開けてみると、ほとんど傷んでおらず、久しぶりに日の目を浴びて嬉しそうです。

育児という名の修行

寺報『信友』220号の巻頭「育児という名の修行」を転載いたします。
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前号の『信友』で長女の誕生の報告をさせていただきましたら、多くのお祝いのお言葉を頂戴しました。誠にありがたく、感謝申し上げます。

 

おかげさまで健やかに育ち、間もなく4か月目を迎えようとしています。ということは、私も父親になって4か月。体はすっかり43歳のメタボおじさんですが、まだまだヒヨッコ親父。父親修業中です。

いや、「修行」といっても良いかもしれません。実に仏教を学ぶ修行になっています。

仏教を開いたお釈迦様は、29歳で出家をしたのですが、その直前に男の子を授かったと言われています。お釈迦さまがその子につけた名前は、ラーフラ。なんと、障がい、妨げという意味。昔、我が子に「悪魔」と命名して、役所で拒否されたなんてニュースを思い出し、2500年前にも、とんでもない親父がいたものだと驚かれる方もいらっしゃるでしょう。

この名前の由来には諸説ありますが、出家を前にして、子どもに情が移らないように名付けたとか、「乗り越えなければいけない障がいができた」と名付けたという説があります。

家族を捨て、悟りを目指そうと決意したお釈迦様にとっても、我が子はやはりかわいく、捨てがたかったのでしょう。たしかに子どもはこの上なくかわいい。しかし、この愛おしいと思う気持ちは、下手をすると、すぐに執着に転じてしまいます。この子に彼氏が出来たらどうしようと今から不安になるのも、執着。思い通りに育って欲しいと願うのも、仏教では執着になります。執着とは、心がとらわれてしまうこと。苦しみの源でもあるのです。

子どもを持つことは、もっとも強い執着を生み出しかねない。お釈迦様は、人間が持つこの情動を冷静に見極めていたのだと思います。

一方で、育児をしていると、執着の無意味さにも出会います。

11月のある日、妻が美容院に行ったので、私が一人で見ていると、ウンチをした娘。お尻を拭こうとした隙に、オシッコもしてしまい、服もビショビショです。

慌てた私は、娘の服を脱がせてスッポンポンにしますが、着替え探しに手間取ってしまい、手が付けられないほどに大泣きをさせてしまいます。

ゴメンゴメンと言いながら、抱っこしても泣き声は大きくなるばかり。こりゃダメだと、ベビーカーで多磨霊園を散歩しても、20分近く、ぐずっていました。秋空の下、私は汗でびっしょり。お墓参りに来ていた方は、困り果てた顔をしてベビーカーを押す私を見て、奥さんに逃げられたのかと思ったかもしれません。

つくづく「思い通りになってくれないなぁ」と思いました。でも、この「思い通りにならない」と思い知ることが、仏教の修行なんですね。「思い通りになって欲しい」というのはまさに執着、欲望です。執着があるから、思い通りになってくれないと苦しい。そのままを無条件に受け入れるしかないことに気付かされます。

そんなこんなで、修行に励んでおります。次にみなさんにお会いする時は、一回り精神的に成長しているかも……。期待をしないで待っていてください。

閉塞感ただよう今

5月には緊急事態宣言を受け、『信友』も臨時号を発行して、コロナの不安との付き合い方をお伝えしました。あの頃は、年末にはホッとできているのではないかという一抹の淡い期待がありました。しかし、現実には今もなお拡大するコロナ禍に、疲れ切ってしまいますね。

そんな先行きの見えない世相を反映してか、夏から自ら命を絶たれる方の数が前年と比べて増加の一途をたどっています。著名人の自死が相次ぎ、心が沈んだ方もいらっしゃるでしょう。

かれこれ13年ほど、「自死・自殺に向き合う僧侶の会」で死にたいという方々の相談を受けていますが、みなさん、死ぬことばかり考えているわけではありません。生きることも真剣に考えています。「本当は生きていたいけれど、生きていけないほどつらい」、「死んで楽になりたいけど、死んではダメと踏ん張っています」と、「生きたい」と「死にたい」のはざまで思い悩んでいらっしゃいます。

学生に自死について授業をすることがあります。そこで伝えたいことは主に二点。

一つには、自死で亡くなった方に偏見を持たないで欲しいということ。自死は命を粗末にしているわけでなく、死の瞬間まで、真剣に悩んだのだ。精一杯生き切ったのだと思ってもらいたい。よく自死をした人は成仏できないと言われますが、少なくとも浄土宗ではそのようなことはありません。阿弥陀様は亡くなり方で差別することなく、救ってくださいます。

もう一つは、自分自身が死にたいと思うほど悩んだ時に、抜けだせる強さ。この強さは、腕力や精神力ではありません。人に頼れる強さ、相談できる強さです。みんな弱いんだから、頑張らなくてもいいじゃない、どんどん人に頼りましょうよ、と。自分の弱さを認められる強さと言ってもいいでしょう。思い悩むことの多い若者だからこそ、この二つを身に着けて欲しいと願っています。

コロナ禍の苦しさの中で自ら命を絶った方々に阿弥陀様の救いがありますように。

今、思い悩んでいる方々が誰かに頼ることで、一歩進めますように。

そして、信友のみなさまが心穏やかに年末年始を過ごせますようにと祈ります。

やつれさせない男

今月発行いたしました寺報『信友』218号の巻頭「やつれさせない男」を転載いたします。
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この原稿を書いているのは、5月17日。ニュースによると、東京の新規感染者が5名、全国で24名とのことで、このまま第一波の収束が期待されるところですが、皆さんのお手元に届く頃の予測が全くつかないのが、伝染病の怖いところですね。
前号では、コロナ禍のなかで、不安とどう付き合っていけば良いのか、仏教を土台に書かせていただきました。今号は一転、こんな時にはくだらない話で息抜きも必要かと思いまして、私のしがない恋話を書いてみます。

志村けんさんのショックもまだ明けやらぬ4月23日、岡江久美子さんの突然の訃報が報じられました。志村さんと違い、入院の報道もありませんでしたから、心の準備もできず、驚かれた方は多いことでしょう。
テレビでは岡江さんの死にいたる経緯や無言の帰宅の様子が流され、追悼特番も放送されています。でも、どうしても私は見れません。志村さんの追悼番組は見ることができるのですが、岡江さんの番組はどうしても見れません。

いつの頃からか、私は岡江さんのファンでした。すごい美人で、性格も明るくて……と、高校の同級生に岡江さんの良さを力説しても、誰もピンと来ません。まあ普通の高校生ならば、好きな女性タレントに同世代のアイドルを挙げるところ、21歳も年上の女優さんを挙げるのですから、私も変わり者です。今にして思えば、年上の女性のお相手をすることが多いこの職業の素質が既にあったのかもしれません。
岡江さんは大和田獏さんと結婚していましたが、獏さんにヤキモチを焼くということはありませんでした。年の差からして、岡江さんを恋愛対象として見ていなかったということもありますが、他にも大きな要因があります。
テレビの岡江さんを食い入るように見る私に、母はいつも「久美子ちゃんがこんなにきれいでいられるのは、獏ちゃんが優しいからよ」と諭していたのです。それが刷り込まれて、岡江さんの美しさは獏さんのおかげなんだと、獏さんに感謝の念すら持つようになりました。

高校の通学は神保町が乗換駅でしたので、よく帰り道に途中下車をして、古本街を歩きました。
ある日のこと、文省堂という古本屋の店頭に飾られた岡江さんの若き日の写真集を発見。値段はなんと3万円!高校生の私には手が出せません。インターネットなど無い時代ですから、内容も分かりませんが、3万円という金額が「お宝」という雰囲気を醸し出していました。
それ以降、文省堂の前を通るたびに、売れていないことを確認するのが習慣になり、誰も買わないことを祈る日々。
悩んだ私は、姉に、岡江さんの写真集が3万円で売られていること、なんとかならないものかと相談をしてみました。すると「大学受験に合格したら、入学祝で買ってあげる」と思わぬ一声。
受験勉強も佳境に入っていた高校3年の私は、その言葉を糧にラストスパート。おかげでなんとか志望校に合格することができ、姉も約束を守ってくれました。大学合格は岡江さんと姉のおかげと言っても過言ではありません。

大学入学後はテレビの岡江さんより生身の女性に目が行くようなり、時間を経る中で、私の中の岡江さんの存在は小さくなっていきました。
随分と年月が経った39歳の時、岡江さん夫妻を思い出します。妻との結婚が決まってからというもの、母は口を酸っぱく、こう言うのです。
「奥さんをやつれさせたら、あなたの責任よ」
「妻をやつれさせない夫」といえば、私の中では獏さんしかいません。「ああ、俺は獏さんにならないといけないんだ」と重責がのしかかります。稼ぎはかなわない分、せめて優しさは獏さん以上に……と。

岡江さんの追悼番組を見ることができない理由に戻りましょう。岡江さんのファンとして、死を受け入れたくないという気持ちが理由の一つ目。そして、妻を持つようになった自分と獏さんを重ね合わせて、その痛々しい姿を見ていられないというのが二つ目の理由です。
獏さんは自分の命と引き換えでも良いからと岡江さんの生を祈ったことでしょう。しかし、非情にも、死は訪れました。どれだけ愛情を注いでも、どれだけ生を願っても、愛する人の死という運命は、時も人も選ばずにやってきます。
老少不定(死は年齢に関係ない)、生者必滅(生あるものは必ず死ぬ)としたり顔で仏教を語っていても、我が事となると恐怖に怯えてしまう私がいます。仏教の視点からは、いつどうなるか分からないからこそ、今という一瞬一瞬を大事にしなければいけないのですが、やはり、「死」は恐ろしいものです。
ただ、今回、自分が死に怯える愚者であると実感すると、阿弥陀さまの極楽浄土で亡き人に再会できるということは、本当に救いだなあと思えます。岡江さんと獏さんもきっといつの日か笑顔で再会をされるはずです。

さて、岡江さんほど美しいかはさておき、今のところ、妻はやつれてはいないようです。どちらが先に旅立つか分かりませんが、「妻をやつれさせない夫」でいられるよう、まずは今日一日、妻に優しくあろうと思います。

不安との付き合い方

新年度が始まり、心躍らせる季節のはずが、新型コロナで大変な状況です。

最前線で懸命に働かれている医療従事者、福祉関係の方々、流通や小売など日常生活維持のために尽力されている職業の方々に心より敬意を表します。また、経済的に大きな影響を受けている方々には、行政の支援があることを願っております。

寺院として何かできることはないかと自問自答してはみるものの、浄土宗で疫病退散の御祈願ができるわけでもなく、平安を祈るのみです。

人間の歴史は疫病との闘いの歴史とも言われます。人間の移動範囲が格段に広がった現代は、昔よりも疫病が流行しやすい世界。今の新型コロナが落ち着いても、また新しいウィルスが十年、二十年くらい後に猛威を振るうと予想する人もいます。

「疫病との闘いの歴史」と書きましたが、人間が疫病に完全に勝利したことは天然痘の一回だけだそうです。他のウィルスは根絶することはできず、予防ワクチンや薬の開発はできても、ウィルスを無くすことはできていないのだとか。ですから、「ウィルスとの付き合い方を習得する歴史」と言った方が適切なのかもしれません。

ワクチンや薬の開発に一年以上はかかるはずです。焦らずに付き合い方を学んでいくしかありません。

仏教精神でこの事態にどう対応したら良いのかと考えていましたら、東日本大震災直後の彼岸法要でお配りしたメッセージを思い出しました。

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六波羅蜜を実践しましょう!

お彼岸とは、もともと「六波羅蜜(ろくはらみつ)」という六つの仏教修行を行ない、彼岸(悟りの境地)を目指す期間であったとも言われています。

こんな大変な時期だからこそ、六波羅蜜を行いませんか?

1.布施波羅蜜:義援金や救済物資を被災者に届けましょう

2.持戒波羅蜜:自らの生活を律しましょう

3.忍辱波羅蜜:不自由、不便に文句を言わないようにしましょう

4.精進波羅蜜:自分が今できることを粛々としましょう

5.禅定波羅蜜:まずは心を落ち着けましょう

6.智慧波羅蜜:デマに惑わされず正しい情報をもとに、自らのなすべきことを考えましょう

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簡単に言えば、欲を小さくし、他者のためを思い、心を乱されず、あるがままに物を見ましょうということ。(本当に簡単に言ってしまって、仏教学者に知られたら怒られますので、ご内密に)どれも今の状況でも、役立てられるのではと思います。

布施は、今なら、必要以上に買い占めることなく、自分が得られるであろうものを他者に振り分けるということも当てはまります。また、柔和な表情や優しい言葉も、他者に安心を与える布施(無畏施といいます)になり、緊張が高まる世の中に求められていますね。

持戒は、こまめな手洗い、うがい、咳エチケット、免疫を高めるための規則正しい食事・睡眠、常に水分補給を欠かさないということも。

忍辱は、不当な不自由に文句を言うなという意味ではなく、はたして今、不自由・不便に感じていることは、本当にそうなのかと一度立ち止まって考えてみましょうという意味です。

精進は、書いてある通りです。家の中ばかりでやることがないとお嘆きの方も、落ち着いてみればやることが見えてくるかもしれません。奥様の家事の手伝い、お仏壇のお掃除などなど。

禅定は、国民のストレスが総じて高くなっている今、とても大事なことかもしれません。イライラしたり、不安だったり、そんな時にはまずは一息つきましょう。そして、「イライラする!」「コロナが怖い!」と感じていたら、頭の中で「私はイライラしている」「私はコロナを怖がっている」と文章変換してみましょう。すると、「私」と「感情」が切り離されて、心が少しだけ落ち着きます。また、お念仏も心を落ち着けるのにオススメです。

智慧は、テレビなどに一喜一憂しないということでしょうか。基本的に、テレビは不安をあおるのが仕事。買い占めはやめましょうと言っておきながら、空っぽの商品棚をこれでもかと映せば、そりゃ慌てて買いに行くのが人間の心理というもの。「ウィルスは空中に三時間以上、生存する」と報道されましたが、裏を返せば、四時間は生存しないわけです。見せ方ひとつで不安にもなるし、安心にもなるので、冷静に見極めましょう。

コメンテーターも誰が本当のことを言っているのかよく分かりません。話半分に聞き、科学的根拠を求めましょう。そもそも、誰もがこんな事態は初体験なのですから。

こういう状況下では、他人を許せなくなりがちです。ニュースを見れば、「なんで若者は外出してるんだ」と怒りを感じることでしょう。「家に居場所がないのかも」、「一人で家にいる孤独に耐えられないのかも」と少し視点を変えてニュースを見れば、許せるようになることも。

六波羅蜜は、それぞれが独立するものではなく、全てがつながっているものです。どれか一つを心がければ、他の五つも自然と実践できるようになると思います。

とはいえ、私たちは不完全な生き物です。怒りも不安も戸惑いも、ウィルスと同じく、ゼロにはできません。根絶を目標とせず、不安とうまく付き合っていくことを目指して、六波羅蜜をお試しください。

みなさんの日々の生活が、ほんの少しでも穏やかになるよう、お役立ていただければ幸いです。

いつもは寺報「信友」発送後にHPに転載している巻頭文ですが、今回発送がやや遅れておりますので、先にHPに掲載いたしました。)

デジタル化による遠隔法要

これだけ事態が深刻になってきますと、法要への参列が不安になるのも無理もありません。無症状が7割とも8割とも言われていますから、感染する不安と同時に感染させる不安もありますよね。

寺では換気、消毒をこまめにおこない、四月からは、当分の間、お茶・お菓子はセルフサービスにしております。

それでも、ご高齢の方や妊婦さんは、法要のために電車で移動するのは気が引けるでしょう。家族だけでなく、親族多数が集まるとなると、会社から自粛を求められている方もいるでしょう。

なので、どの寺院でも、法要の縮小や延期をされる方が増えているようです。蓮宝寺も例外ではありません。

ただ、難しいのが、いつ収束するか見えないところ。そろそろ本格的に遠隔法要の手段を検討しようかと思っているところです。

ズームというアプリを使えば、親族がそれぞれの家からアクセスすることが可能で、法要の中継ができるかな、法要を丸々録画してユーチューブにアップして、期間限定で特定の方だけが視聴できるようにしようかな、とか。まずは、次回の施餓鬼法要、秋の彼岸法要で考えてみようと思います。

いろいろ試行錯誤しながら、この非常事態に対応していきたいと思いますので、みなさまもお気軽にご希望をおっしゃってください。

何よりも、早く、みなさまが安心してお参りいただける状況になることを願っております。

(4月12日、タイトル・本文の一部を改訂しました。)

今、いのちを思う

新型コロナウィルスの流行はいつがピークなのかも分からず、大きな不安の中でお過ごしのことと思います。ある医師の話では、今、みんながストレスのために血圧が高くなっているそうです。

特にコメディアンの志村けんさんの訃報は大きな衝撃を私たちに与えました。訃報そのものも深い悲しみを呼びましたが、面会もままならず、ご遺体に家族が会えないという事実に、多くの人が感染症の恐ろしさを再認識しました。

指定感染症の場合、入院しても直接の面会は難しいと言われています。臨終後、遺体は医療機関で納体袋に納められ、そのまま棺に。聞くところによれば、感染予防のため、顔を見ることも花を入れることもできぬまま、早ければ二十四時間以内の火葬となるようです。

イタリアで多くの聖職者が亡くなられたのは、キリスト教の終油の秘跡(臨終間際・直後の信者の額・手に油を塗る儀式)を感染者に対して行ったことによる二次感染と報道されているように、亡くなった後であっても、ウィルスは伝染力を持っています。ですから、強力な感染症の場合、衛生的な観点からは、遺体の密封・早期火葬はいたし方ありません。しかし、死に化粧や最後の花入れが一般的な葬送習慣となっている我が国では、新型コロナで亡くなられた方とのお別れはなかなか受け入れがたいものです。

「最後は一晩、病室で一緒に過ごせました」、「安らかな顔で眠っていますから、見てあげてください」といった言葉を聞いた方も多いのではないでしょうか。最期の時を共に過ごし、きれいな顔と別れるということが、ご遺族の心の安らぎに少なからず影響していると感じるだけに、もし私のまわりで新型コロナによって亡くなる方が現れたらと思うと、どう受け止めたら良いのか、どうご遺族に接したら良いのかと、迷ってしまうのが正直なところです。

また、医療崩壊の危機が叫ばれています。ベッドが足りない、医師が足りない、病院がパンクしてしまう。そんなイメージで語られやすいですが、最も悲しく、恐ろしいことは、否応なく命の選別が行われる事態でしょう。

医療の資源が限られていて、その受け入れ可能な量を超える重症患者が殺到すれば、「助かる命・助かる可能性の高い命」と「助からない命・助かる可能性の低い命」が選別され、優先順位がつけられます。多くの場合、高齢者よりも、若い世代が優先されるでしょう。

人の命を救うために医療者になっているのですから、医療者もそんなことはしたくありません。しかし、そうせざるを得ない状況がもう目前まで迫っているようです。もし、そうなった時、私たちは「なぜ、こんなに頑張ってきたお年寄りが、見捨てられるような最期にならないといけないんだ」とやり場のない思いに襲われるでしょう。

なんとか医療崩壊を食い止めるよう、少しでも感染者が増えないよう、各自が努力して、最善を尽くしかありませんが、私は職業柄なのか、どうしても迫りくる「死」を考えてしまうのです。

志村けんさんの最期や医療崩壊による命の選別を想像し、私もコロナで死ぬかもない、家族が死ぬかもしれない、檀家さんが亡くなるかもしれないと考える。その時、どう受け止めたらいいのだろうかと思い悩めども、正解は見つかりません。

それでも、最期の対面がかなわなくても、どんな亡くなり方であっても、しっかり阿弥陀さまが救ってくださり、安らかな極楽浄土に行けるのだという信心だけは、揺るがずに持ち、お伝えしてきたいと思います。

(4月12日一部改訂いたしました。)