ライフエンディング研究会も丸6年

最近、ライフエンディング研究会の報告をさぼってしまっていて、すみません。
しっかり毎月、欠かさずに開催をしております。
先月は、2月27日に吉祥寺の武蔵野公会堂第6会議室にて行いました。
ちょうど、2月の18日から22日まで、私が台湾に調査旅行(僧侶による高齢者ケア・終末期ケアの調査でした)に出ておりましたので、その報告をいたしました。
15人が出席し、懇親会には16人が参加してくださいました。(お通夜が終わってから参加してくださったので、増えています)
2013年3月からスタートした研究会ですので、先月の開催で丸6年が完了し、開催回数は72回になりました。
最近は、参加者数は15人前後で推移しておりまして、始めた当初は5人とかでやっていたことを考えると、ありがたいことと思います。
継続は力なりと申しますが、私がただ地元で信頼できる死に関わる専門家と関係を作り、楽しく飲食ができればと始めた会が、ここまで続くとは…
多摩・武蔵野地区だけではなく、23区内の方、神奈川や埼玉にお住まいの方も参加されたりと、想像していなかった事態に私が一番驚いています。
今後もゆるーく、ながーく続けていくつもりですので、引き続き、よろしくお願いいたします。
(とはいえ、ちゃんと記録を残して、ブログにもこまめに報告をあげなければと気を引き締めております。)

ジュリーと禅

今年2月に発行した寺報『信友』の巻頭「ジュリーと禅」を転載いたします。
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昨年の十月、テレビや雑誌をにぎわせたのが、ジュリーこと沢田研二のドタキャン騒動。みなさまのご記憶にも新しいことでしょう。

定員九千人の会場が七千人しか埋まらないと聞いたジュリーが、約束が違うとヘソを曲げてしまったというお話。会場まで足を運んだ観客の気持ちを考えていない、ファンあっての仕事なのにけしからん等と多くの批判が浴びせられました。それと同時に、変わり果てた、ケンタッキーのおじいさん(カーネル・サンダース)のようなジュリーの風貌も話題になりました。

一方、信友のみなさまからは、ジュリーファンの私の母に対して、ご心配をいただきました。法事にお越しの際に、「お母さん、大丈夫でした?」と口々に尋ねられ、ジュリー好きがこんなにも浸透しているのかと驚きつつ、母の気持ちを案じてくださることをありがたく思ったものです。

母は、幸いにして、当該公演には行っておらず、直接の被害はありませんでした。むしろ、毎日、テレビをつければジュリーが映るので、上機嫌。そして、「こういう頑固なところがジュリーらしいのよ!」とますますジュリー株は上昇していました。

たしかに、コンプライアンスがどうのこうのと厳しく言われ、芸能人も小粒になっている昨今、七千人の客がいても、「俺は歌いたくない」と我を通せる人はそういません。そんなジュリーを見ながら、私はふと禅宗のエピソードを思い浮かべました。

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瑞巌(ずいがん)の彦(げん)和尚、毎日自ら主人公と喚(よ)び、復(ま)た自ら応諾す。乃ち云く、

「惺惺著(せいせいじゃく)、喏(だく)。他時異日(たじいじつ)、人の瞞(まん)を受くること莫(な)かれ、喏喏(だくだく)」

(訳)師彦和尚はいつも庭前の石上に坐り、大声をあげて自問自答します。

「主人公よ」、「ハイ」。「目をさましているのか!主人公がお留守になっていないか!」、「他人のうわさ話を気にするな!主人公を見失うなよ!」、「ハイハイ」

http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/070701.html
(臨済宗・黄檗宗の公式サイトより)
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このエピソードは「主人公」という言葉の由来とされています。今は主役のように用いられる「主人公」ですが、ここでは、本当の自分、主体的な自分という意味。つまり、常に自分自身に「目を覚ましているか?」、「周囲に振り回されていないか?」と問い続けることが大事なんですね。

禅の境地とは、世の中の常識や価値観に振り回されず、自分で自分の人生を歩み切るというもの。私は、ジュリーのドタキャン騒動に、周囲におもねらない「主人公」の姿を見たのでしょう。

それにひきかえ、私たちは、常識や世間体を気にして、物事を考えてしまいがち。窮屈に思いながらも、そうせざるをえないのが私たちの哀しい性(さが)。世の中のジュリー叩きも、どこかに、「そんな風に自分を譲らないで生きてみたいよ」という羨望のまなざしが混じっていたのかもしれません。

ジュリーのようにはいきませんが、私たちも自分の人生の「主人公」として、自問自答しながら生きてみたいものですね。

ちなみに、ジュリー騒動の母なりの結論は、

「あんな頑固な男とは結婚できないわね。」

母はしっかり主人公として生きているようです。