育児という名の修行

寺報『信友』220号の巻頭「育児という名の修行」を転載いたします。
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前号の『信友』で長女の誕生の報告をさせていただきましたら、多くのお祝いのお言葉を頂戴しました。誠にありがたく、感謝申し上げます。

 

おかげさまで健やかに育ち、間もなく4か月目を迎えようとしています。ということは、私も父親になって4か月。体はすっかり43歳のメタボおじさんですが、まだまだヒヨッコ親父。父親修業中です。

いや、「修行」といっても良いかもしれません。実に仏教を学ぶ修行になっています。

仏教を開いたお釈迦様は、29歳で出家をしたのですが、その直前に男の子を授かったと言われています。お釈迦さまがその子につけた名前は、ラーフラ。なんと、障がい、妨げという意味。昔、我が子に「悪魔」と命名して、役所で拒否されたなんてニュースを思い出し、2500年前にも、とんでもない親父がいたものだと驚かれる方もいらっしゃるでしょう。

この名前の由来には諸説ありますが、出家を前にして、子どもに情が移らないように名付けたとか、「乗り越えなければいけない障がいができた」と名付けたという説があります。

家族を捨て、悟りを目指そうと決意したお釈迦様にとっても、我が子はやはりかわいく、捨てがたかったのでしょう。たしかに子どもはこの上なくかわいい。しかし、この愛おしいと思う気持ちは、下手をすると、すぐに執着に転じてしまいます。この子に彼氏が出来たらどうしようと今から不安になるのも、執着。思い通りに育って欲しいと願うのも、仏教では執着になります。執着とは、心がとらわれてしまうこと。苦しみの源でもあるのです。

子どもを持つことは、もっとも強い執着を生み出しかねない。お釈迦様は、人間が持つこの情動を冷静に見極めていたのだと思います。

一方で、育児をしていると、執着の無意味さにも出会います。

11月のある日、妻が美容院に行ったので、私が一人で見ていると、ウンチをした娘。お尻を拭こうとした隙に、オシッコもしてしまい、服もビショビショです。

慌てた私は、娘の服を脱がせてスッポンポンにしますが、着替え探しに手間取ってしまい、手が付けられないほどに大泣きをさせてしまいます。

ゴメンゴメンと言いながら、抱っこしても泣き声は大きくなるばかり。こりゃダメだと、ベビーカーで多磨霊園を散歩しても、20分近く、ぐずっていました。秋空の下、私は汗でびっしょり。お墓参りに来ていた方は、困り果てた顔をしてベビーカーを押す私を見て、奥さんに逃げられたのかと思ったかもしれません。

つくづく「思い通りになってくれないなぁ」と思いました。でも、この「思い通りにならない」と思い知ることが、仏教の修行なんですね。「思い通りになって欲しい」というのはまさに執着、欲望です。執着があるから、思い通りになってくれないと苦しい。そのままを無条件に受け入れるしかないことに気付かされます。

そんなこんなで、修行に励んでおります。次にみなさんにお会いする時は、一回り精神的に成長しているかも……。期待をしないで待っていてください。