中国のネットTV番組

昨年の夏に中国のテレビ局の取材を受けました。
日本自殺予防学会会長の張賢徳先生の紹介ということで、たしか撮影のほんの少し前に蓮宝寺で撮影をしたいと連絡があり、訳も分からずハイと答えてしまったのが運の尽き。
当日になったら、住職も出てくださいと……。
張先生の手前、断りずらいのと、テレビのように顔が出るものは出たくないのですが、中国の放送だったら良いかと引き受けました。
(実際、今のところ全く反応はなくて安堵しています(笑))

明治維新から150年後の日本を中国の著名ジャーナリスト(らしい)の许知远さんが、様々な角度から考察する連続ドキュメンタリーということでした。
最初、日本の自死の多さには、武士の切腹の文化が影響しているのではという仮説を検証するというような話を聞いて、そんなことがあるかしら?と思っていました。
番組中、「切腹最中」の紹介を私がしていますが、これは上記意図に基づいて製作スタッフが持参したものを、私が出すという形で説明して欲しいということでしたので、「切腹が自死の多さに影響しているかもしれませんが、多くの日本人にとっては「切腹」は最中にできるくらい歴史的な遠い出来事になっているのではないでしょうか」と少し否定するような発言をしています。
中国語が読めませんので、私の発言がどう理解されているのかサッパリ分かりません(^^;
とにかく暑い中、長い撮影で、蚊にも刺されるし大変でしたが、小さい殺風景な寺が風情ある寺に映っていて、さすがプロだなと感心した次第です。

https://v.qq.com/x/cover/mzc00200g6qwp0v/c0957db1fq3.html
https://v.qq.com/x/cover/mzc00200g6qwp0v/p0958zpfi6c.html

令和2年施餓鬼法要のご報告

今年の梅雨は「梅雨らしい」というシトシトとした雨ではなく、豪雨となって各地に多くの被害をもたらしました。首都圏はそこまでの被害はありませんでしたが、信友のみなさまのご親族、ご友人の中には被害に遭われた方がいらっしゃるかもしれません。お見舞い申し上げます。
第一波が収まったのでは?と思ったのも束の間、再び東京では連日200人前後の感染者数が報告されています。出口の見えないコロナ禍そのものに加え、テレビや新聞からの不確かな情報に疲れてしまいますね。
さて、春彼岸に続き、夏の施餓鬼法要もウイルス感染予防のため無参拝という形式で、7月12日13時よりお勤めいたしました。基本的に無参拝ではありますが、『信友』に「当日、墓参等で近隣にお越しの際、法要にお立ち寄りいただくのは構いません」と記させていただいたように、当日、3名の参列がございました。
施餓鬼法要はご本尊と相対する形で施餓鬼壇という祭壇を設け、途中、そちらに移動しての読経、また祭壇に向かっての読経があり、導師はせわしない法要です。例年、お手伝いいただく先輩僧侶が、細かくフォローしてくださるのですが、今年は1人でテンヤワンヤ。暑さの汗か冷や汗か、とにかく汗たらたらでした。
これらの様子を、個人情報の回向の部分などを除いて10分ほどにまとめてみましたので、下記に掲載いたします。
この状況が続くと秋の彼岸法要も無参拝法要となるかもしれません。しばらくは寂しいですが、健康が第一。早く安心して、皆さまと手を合わせられる状況になることを願ってやみません。
通常のご法事では、「客間・本堂を網戸にしての換気徹底」、「玄関にアルコール手指消毒液の設置」、「間隔をあけて座席配置」、「マスクのまま法要参列の励行」など安心してお参りいただけるよう勤めています。ただし、可能性はゼロにはできません。ご不安のある方は遠慮なさらずに延期をお申し出ください。
みなさまも、くれぐれもご自愛されてお過ごしくださいませ。

今年の施餓鬼法要

明日、7月12日、蓮宝寺の施餓鬼法要を行いますが、春彼岸と同様に参集しない形をとります。
私一人でおつとめいたします。
檀信徒のみなさまには13時にお仏壇の前でお手を合わせていただければと思います。

【僧侶向け案内】宗教者と若年者の自殺を考えるZoomセミナー

知人で元防衛医科大学校精神看護学教授の高橋聡美さんから、「宗教者と若年者の自殺を考えるZoomセミナー」の案内をいただきました。
長年、自殺予防教育、自死遺族・遺児支援に携わり、自死が発生した教育現場への危機介入をされてきた高橋さんが、宗教者の力が必要だと痛感して、企画されたとのことです。

7月5日(日)17時~19時、7月29日(水)10時~12時の2回開催(都合の良い方を選んでくださいとのこと)で、参加費2,000円となっています。

ご関心のある方はファイルをご覧ください。
また、お知り合いに関心をお持ちの方がいらっしゃいましたら、シェアをしていただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。

僧侶と若者の自殺を考えるセミナー案内

やつれさせない男

今月発行いたしました寺報『信友』218号の巻頭「やつれさせない男」を転載いたします。
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この原稿を書いているのは、5月17日。ニュースによると、東京の新規感染者が5名、全国で24名とのことで、このまま第一波の収束が期待されるところですが、皆さんのお手元に届く頃の予測が全くつかないのが、伝染病の怖いところですね。
前号では、コロナ禍のなかで、不安とどう付き合っていけば良いのか、仏教を土台に書かせていただきました。今号は一転、こんな時にはくだらない話で息抜きも必要かと思いまして、私のしがない恋話を書いてみます。

志村けんさんのショックもまだ明けやらぬ4月23日、岡江久美子さんの突然の訃報が報じられました。志村さんと違い、入院の報道もありませんでしたから、心の準備もできず、驚かれた方は多いことでしょう。
テレビでは岡江さんの死にいたる経緯や無言の帰宅の様子が流され、追悼特番も放送されています。でも、どうしても私は見れません。志村さんの追悼番組は見ることができるのですが、岡江さんの番組はどうしても見れません。

いつの頃からか、私は岡江さんのファンでした。すごい美人で、性格も明るくて……と、高校の同級生に岡江さんの良さを力説しても、誰もピンと来ません。まあ普通の高校生ならば、好きな女性タレントに同世代のアイドルを挙げるところ、21歳も年上の女優さんを挙げるのですから、私も変わり者です。今にして思えば、年上の女性のお相手をすることが多いこの職業の素質が既にあったのかもしれません。
岡江さんは大和田獏さんと結婚していましたが、獏さんにヤキモチを焼くということはありませんでした。年の差からして、岡江さんを恋愛対象として見ていなかったということもありますが、他にも大きな要因があります。
テレビの岡江さんを食い入るように見る私に、母はいつも「久美子ちゃんがこんなにきれいでいられるのは、獏ちゃんが優しいからよ」と諭していたのです。それが刷り込まれて、岡江さんの美しさは獏さんのおかげなんだと、獏さんに感謝の念すら持つようになりました。

高校の通学は神保町が乗換駅でしたので、よく帰り道に途中下車をして、古本街を歩きました。
ある日のこと、文省堂という古本屋の店頭に飾られた岡江さんの若き日の写真集を発見。値段はなんと3万円!高校生の私には手が出せません。インターネットなど無い時代ですから、内容も分かりませんが、3万円という金額が「お宝」という雰囲気を醸し出していました。
それ以降、文省堂の前を通るたびに、売れていないことを確認するのが習慣になり、誰も買わないことを祈る日々。
悩んだ私は、姉に、岡江さんの写真集が3万円で売られていること、なんとかならないものかと相談をしてみました。すると「大学受験に合格したら、入学祝で買ってあげる」と思わぬ一声。
受験勉強も佳境に入っていた高校3年の私は、その言葉を糧にラストスパート。おかげでなんとか志望校に合格することができ、姉も約束を守ってくれました。大学合格は岡江さんと姉のおかげと言っても過言ではありません。

大学入学後はテレビの岡江さんより生身の女性に目が行くようなり、時間を経る中で、私の中の岡江さんの存在は小さくなっていきました。
随分と年月が経った39歳の時、岡江さん夫妻を思い出します。妻との結婚が決まってからというもの、母は口を酸っぱく、こう言うのです。
「奥さんをやつれさせたら、あなたの責任よ」
「妻をやつれさせない夫」といえば、私の中では獏さんしかいません。「ああ、俺は獏さんにならないといけないんだ」と重責がのしかかります。稼ぎはかなわない分、せめて優しさは獏さん以上に……と。

岡江さんの追悼番組を見ることができない理由に戻りましょう。岡江さんのファンとして、死を受け入れたくないという気持ちが理由の一つ目。そして、妻を持つようになった自分と獏さんを重ね合わせて、その痛々しい姿を見ていられないというのが二つ目の理由です。
獏さんは自分の命と引き換えでも良いからと岡江さんの生を祈ったことでしょう。しかし、非情にも、死は訪れました。どれだけ愛情を注いでも、どれだけ生を願っても、愛する人の死という運命は、時も人も選ばずにやってきます。
老少不定(死は年齢に関係ない)、生者必滅(生あるものは必ず死ぬ)としたり顔で仏教を語っていても、我が事となると恐怖に怯えてしまう私がいます。仏教の視点からは、いつどうなるか分からないからこそ、今という一瞬一瞬を大事にしなければいけないのですが、やはり、「死」は恐ろしいものです。
ただ、今回、自分が死に怯える愚者であると実感すると、阿弥陀さまの極楽浄土で亡き人に再会できるということは、本当に救いだなあと思えます。岡江さんと獏さんもきっといつの日か笑顔で再会をされるはずです。

さて、岡江さんほど美しいかはさておき、今のところ、妻はやつれてはいないようです。どちらが先に旅立つか分かりませんが、「妻をやつれさせない夫」でいられるよう、まずは今日一日、妻に優しくあろうと思います。

不安との付き合い方

新年度が始まり、心躍らせる季節のはずが、新型コロナで大変な状況です。

最前線で懸命に働かれている医療従事者、福祉関係の方々、流通や小売など日常生活維持のために尽力されている職業の方々に心より敬意を表します。また、経済的に大きな影響を受けている方々には、行政の支援があることを願っております。

寺院として何かできることはないかと自問自答してはみるものの、浄土宗で疫病退散の御祈願ができるわけでもなく、平安を祈るのみです。

人間の歴史は疫病との闘いの歴史とも言われます。人間の移動範囲が格段に広がった現代は、昔よりも疫病が流行しやすい世界。今の新型コロナが落ち着いても、また新しいウィルスが十年、二十年くらい後に猛威を振るうと予想する人もいます。

「疫病との闘いの歴史」と書きましたが、人間が疫病に完全に勝利したことは天然痘の一回だけだそうです。他のウィルスは根絶することはできず、予防ワクチンや薬の開発はできても、ウィルスを無くすことはできていないのだとか。ですから、「ウィルスとの付き合い方を習得する歴史」と言った方が適切なのかもしれません。

ワクチンや薬の開発に一年以上はかかるはずです。焦らずに付き合い方を学んでいくしかありません。

仏教精神でこの事態にどう対応したら良いのかと考えていましたら、東日本大震災直後の彼岸法要でお配りしたメッセージを思い出しました。

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六波羅蜜を実践しましょう!

お彼岸とは、もともと「六波羅蜜(ろくはらみつ)」という六つの仏教修行を行ない、彼岸(悟りの境地)を目指す期間であったとも言われています。

こんな大変な時期だからこそ、六波羅蜜を行いませんか?

1.布施波羅蜜:義援金や救済物資を被災者に届けましょう

2.持戒波羅蜜:自らの生活を律しましょう

3.忍辱波羅蜜:不自由、不便に文句を言わないようにしましょう

4.精進波羅蜜:自分が今できることを粛々としましょう

5.禅定波羅蜜:まずは心を落ち着けましょう

6.智慧波羅蜜:デマに惑わされず正しい情報をもとに、自らのなすべきことを考えましょう

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簡単に言えば、欲を小さくし、他者のためを思い、心を乱されず、あるがままに物を見ましょうということ。(本当に簡単に言ってしまって、仏教学者に知られたら怒られますので、ご内密に)どれも今の状況でも、役立てられるのではと思います。

布施は、今なら、必要以上に買い占めることなく、自分が得られるであろうものを他者に振り分けるということも当てはまります。また、柔和な表情や優しい言葉も、他者に安心を与える布施(無畏施といいます)になり、緊張が高まる世の中に求められていますね。

持戒は、こまめな手洗い、うがい、咳エチケット、免疫を高めるための規則正しい食事・睡眠、常に水分補給を欠かさないということも。

忍辱は、不当な不自由に文句を言うなという意味ではなく、はたして今、不自由・不便に感じていることは、本当にそうなのかと一度立ち止まって考えてみましょうという意味です。

精進は、書いてある通りです。家の中ばかりでやることがないとお嘆きの方も、落ち着いてみればやることが見えてくるかもしれません。奥様の家事の手伝い、お仏壇のお掃除などなど。

禅定は、国民のストレスが総じて高くなっている今、とても大事なことかもしれません。イライラしたり、不安だったり、そんな時にはまずは一息つきましょう。そして、「イライラする!」「コロナが怖い!」と感じていたら、頭の中で「私はイライラしている」「私はコロナを怖がっている」と文章変換してみましょう。すると、「私」と「感情」が切り離されて、心が少しだけ落ち着きます。また、お念仏も心を落ち着けるのにオススメです。

智慧は、テレビなどに一喜一憂しないということでしょうか。基本的に、テレビは不安をあおるのが仕事。買い占めはやめましょうと言っておきながら、空っぽの商品棚をこれでもかと映せば、そりゃ慌てて買いに行くのが人間の心理というもの。「ウィルスは空中に三時間以上、生存する」と報道されましたが、裏を返せば、四時間は生存しないわけです。見せ方ひとつで不安にもなるし、安心にもなるので、冷静に見極めましょう。

コメンテーターも誰が本当のことを言っているのかよく分かりません。話半分に聞き、科学的根拠を求めましょう。そもそも、誰もがこんな事態は初体験なのですから。

こういう状況下では、他人を許せなくなりがちです。ニュースを見れば、「なんで若者は外出してるんだ」と怒りを感じることでしょう。「家に居場所がないのかも」、「一人で家にいる孤独に耐えられないのかも」と少し視点を変えてニュースを見れば、許せるようになることも。

六波羅蜜は、それぞれが独立するものではなく、全てがつながっているものです。どれか一つを心がければ、他の五つも自然と実践できるようになると思います。

とはいえ、私たちは不完全な生き物です。怒りも不安も戸惑いも、ウィルスと同じく、ゼロにはできません。根絶を目標とせず、不安とうまく付き合っていくことを目指して、六波羅蜜をお試しください。

みなさんの日々の生活が、ほんの少しでも穏やかになるよう、お役立ていただければ幸いです。

いつもは寺報「信友」発送後にHPに転載している巻頭文ですが、今回発送がやや遅れておりますので、先にHPに掲載いたしました。)

デジタル化による遠隔法要

これだけ事態が深刻になってきますと、法要への参列が不安になるのも無理もありません。無症状が7割とも8割とも言われていますから、感染する不安と同時に感染させる不安もありますよね。

寺では換気、消毒をこまめにおこない、四月からは、当分の間、お茶・お菓子はセルフサービスにしております。

それでも、ご高齢の方や妊婦さんは、法要のために電車で移動するのは気が引けるでしょう。家族だけでなく、親族多数が集まるとなると、会社から自粛を求められている方もいるでしょう。

なので、どの寺院でも、法要の縮小や延期をされる方が増えているようです。蓮宝寺も例外ではありません。

ただ、難しいのが、いつ収束するか見えないところ。そろそろ本格的に遠隔法要の手段を検討しようかと思っているところです。

ズームというアプリを使えば、親族がそれぞれの家からアクセスすることが可能で、法要の中継ができるかな、法要を丸々録画してユーチューブにアップして、期間限定で特定の方だけが視聴できるようにしようかな、とか。まずは、次回の施餓鬼法要、秋の彼岸法要で考えてみようと思います。

いろいろ試行錯誤しながら、この非常事態に対応していきたいと思いますので、みなさまもお気軽にご希望をおっしゃってください。

何よりも、早く、みなさまが安心してお参りいただける状況になることを願っております。

(4月12日、タイトル・本文の一部を改訂しました。)

今、いのちを思う

新型コロナウィルスの流行はいつがピークなのかも分からず、大きな不安の中でお過ごしのことと思います。ある医師の話では、今、みんながストレスのために血圧が高くなっているそうです。

特にコメディアンの志村けんさんの訃報は大きな衝撃を私たちに与えました。訃報そのものも深い悲しみを呼びましたが、面会もままならず、ご遺体に家族が会えないという事実に、多くの人が感染症の恐ろしさを再認識しました。

指定感染症の場合、入院しても直接の面会は難しいと言われています。臨終後、遺体は医療機関で納体袋に納められ、そのまま棺に。聞くところによれば、感染予防のため、顔を見ることも花を入れることもできぬまま、早ければ二十四時間以内の火葬となるようです。

イタリアで多くの聖職者が亡くなられたのは、キリスト教の終油の秘跡(臨終間際・直後の信者の額・手に油を塗る儀式)を感染者に対して行ったことによる二次感染と報道されているように、亡くなった後であっても、ウィルスは伝染力を持っています。ですから、強力な感染症の場合、衛生的な観点からは、遺体の密封・早期火葬はいたし方ありません。しかし、死に化粧や最後の花入れが一般的な葬送習慣となっている我が国では、新型コロナで亡くなられた方とのお別れはなかなか受け入れがたいものです。

「最後は一晩、病室で一緒に過ごせました」、「安らかな顔で眠っていますから、見てあげてください」といった言葉を聞いた方も多いのではないでしょうか。最期の時を共に過ごし、きれいな顔と別れるということが、ご遺族の心の安らぎに少なからず影響していると感じるだけに、もし私のまわりで新型コロナによって亡くなる方が現れたらと思うと、どう受け止めたら良いのか、どうご遺族に接したら良いのかと、迷ってしまうのが正直なところです。

また、医療崩壊の危機が叫ばれています。ベッドが足りない、医師が足りない、病院がパンクしてしまう。そんなイメージで語られやすいですが、最も悲しく、恐ろしいことは、否応なく命の選別が行われる事態でしょう。

医療の資源が限られていて、その受け入れ可能な量を超える重症患者が殺到すれば、「助かる命・助かる可能性の高い命」と「助からない命・助かる可能性の低い命」が選別され、優先順位がつけられます。多くの場合、高齢者よりも、若い世代が優先されるでしょう。

人の命を救うために医療者になっているのですから、医療者もそんなことはしたくありません。しかし、そうせざるを得ない状況がもう目前まで迫っているようです。もし、そうなった時、私たちは「なぜ、こんなに頑張ってきたお年寄りが、見捨てられるような最期にならないといけないんだ」とやり場のない思いに襲われるでしょう。

なんとか医療崩壊を食い止めるよう、少しでも感染者が増えないよう、各自が努力して、最善を尽くしかありませんが、私は職業柄なのか、どうしても迫りくる「死」を考えてしまうのです。

志村けんさんの最期や医療崩壊による命の選別を想像し、私もコロナで死ぬかもない、家族が死ぬかもしれない、檀家さんが亡くなるかもしれないと考える。その時、どう受け止めたらいいのだろうかと思い悩めども、正解は見つかりません。

それでも、最期の対面がかなわなくても、どんな亡くなり方であっても、しっかり阿弥陀さまが救ってくださり、安らかな極楽浄土に行けるのだという信心だけは、揺るがずに持ち、お伝えしてきたいと思います。

(4月12日一部改訂いたしました。)