仏教と自死に関する国際シンポジウム

ずいぶんと更新が滞っておりまして、すみません。
11月6日から10日まで「仏教と自死に関する国際シンポジウム」というものに参加してきました。
6日から8日までは横浜にあります、孝道教団の本部・孝道山にて、国内外の僧侶・仏教徒が各自の自死対策の取り組みの事例報告を行い、私も自死・自殺に向き合う僧侶の会について報告いたしました。
9日は会場を京都・西本願寺に移しまして、もう少し掘り下げた国内外の僧侶・仏教者によるディスッションを行い、10日は龍谷大学・響都ホールにて公開シンポジウムとなりました。
僭越ながら私も登壇者として発言をいたしましたが、海外の事例では精神科医やカウンセラーの方々が仏教徒というアイデンティティを確固としていて、自分の仕事に仏教の智慧や実践を活かしていることが印象的でした。
日本では、僧侶の活動ばかり目立ってしまいますが、在家の仏教徒の方々と手を携えていくことが、活動の広がり・深まりを生むのかなと思った1週間でした。
産経新聞のウェブ版に取材記事が出ておりますので、以下にリンクを貼ります。
http://www.sankei.com/west/news/171124/wst1711240001-n1.html

時の過ぎゆくままに

寺報『信友』206号を檀信徒の皆さまに郵送いたしました。巻頭文「時の過ぎゆくままに」を転載いたします。
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つい先日のこと、沢田研二の50周年記念ライブに行ってまいりました。実は母がジュリーファンでして、通常、姉と二人で行っているのですが、今回は私も運転手を兼ねて同行いたしました。

父の存命中は、スーパーへの買い物以外、滅多に外出ができなかった母。父は留守番が嫌い、というよりは、母がいないと不安でしょうがない人でした。それでも、普段、自分に尽くしてくれている母に少しは申し訳ないと思っていたのでしょうか、ジュリーのライブだけは、渋々許していました。毎回、「あんなおかま野郎のどこが良いんだか」と負け惜しみ(?)を言いながら、送り出すのが常でした。

ジュリーといえば、化粧をした男性タレントの先駆けですから、昭和ひと桁生まれの父からすると「おかま野郎」だったのでしょう。私が小さい頃はまだジュリーの全盛期。私の記憶のジュリーも中性的な妖しさ・美しさが際立っていました。

さて、開演が迫ってまいります。会場は満席、ほとんどが50代以上の女性、60~70歳が最も多い年齢層のようです。ジュリーが69歳ですから、ともに人生を歩んできた同志のような感覚もあるのかもしれません。明かりが落とされ、いよいよジュリーの登場です。

スポットライトが照らされ、キラキラしたグリーンのラメ入りスーツをまとったジュリーが現れます。そこにいるジュリーは、白髪の坊主頭に白いあごひげ、顔も体形もふっくら、いや、ぶくぶくに近いもの。もはや「おかま野郎」の妖艶さのかけらもない、一人のおじさんが立っていました。しかし、ひとたび歌いだせば、往時をしのばせるどころか、全盛期よりも深みと迫力のある歌声で会場を熱狂させるのです。あちらこちらから「ジュリーッ!」と年季の入った黄色い声。78歳の母もノリノリです。

あれだけ美のシンボルとされてもてはやされたジュリーが、今、これだけ外見に無頓着でいるということは、ただの怠け者ということではないはずです。歌声を聞けば、努力を怠っていないことは明らか。外見だって努力次第でなんとかなるでしょう。若さや美を保つために、整形手術をしたり、美容に高額なお金をかけたりするのが当たり前な芸能界にいながら、それに迎合しない。テレビには積極的に出演しないけれども、毎年、ライブツアーは欠かさず、歌声を全国に届ける。歌手として必要なことだけを追い求めるジュリーには深い哲学を感じました。

余計なものは捨て、本当に必要なものだけに力を注ぐ、流行りの言葉でいえば「断捨離」でしょうか。そして、「時の過ぎゆくままに、この身をまかせ」と歌を地で行くその姿に、諸行無常のことわりを思ったのでした。

~後日談~

ジュリーのライブの2日後の朝、私が台所に行くと、母があおむけで倒れています。聞くと、目が回って起き上がれないとのこと。慌てて♯7119(救急相談センター)にかけて、事情を説明すると、すぐに救急搬送が必要と言われ、救急車にて病院に搬送されました。CTも心電図も異常はなく、担当医は耳が原因でしょうとの診断。

翌日、退院し、その足で耳鼻科にて診察と相成ります。すると、先生は「最近、寝不足とか、興奮したことありました?」と質問。ジュリーのライブに行ったと答えると、「それだよ、それ!」と大笑いです。高齢者が興奮したり、寝不足になったりすると、自律神経が乱れて、耳のリンパ液のバランスが悪くなり、めまいが起こることがあるそうで、まさに年寄りの冷や水というもの。もちろん、父の介護・葬儀、私の挙式などでの疲労の蓄積があっての今回のめまいではありますが、ファンを病院送りにしてしまう、ジュリーの未だ衰えぬスター性に脱帽です。

ただ、ライブに行ってはダメということではなく、ライブの夜はゆっくり湯舟につかり、よく寝れば良いようです。信友の皆さまも、体力と相談しながら、人生をエンジョイされますように。

9月彼岸会日程

檀信徒の皆さまにお送りしている寺報「信友」のお届けが遅れておりまして、申し訳ございません。
印刷会社のお盆休み直前に入稿してしまったので、印刷まで時間がかかっております。
秋の彼岸法要の日程をこちらでお先にお伝えいたします。
9月24日(日)11時~お斎、13時~法話、14時~法要となります。
よろしくお願い申し上げます。

七月のライフエンディング研究会

7月31日に開催したライフエンディング研究会の記事が中外日報に掲載されました。
7月は大学生が中心になって運営する「終活ねっと」についてでした。
参加者から厳しい意見も出ましたが、期待の表れでもあったように思います。
若い彼らだからこそ書ける正確な、顔の見える記事を期待しています。
記事PDFは↓をクリックしてください。

中外日報20170804_4面

 

中外日報に

7月14日付の中外日報に住職の取材記事が掲載されました。
電話で結構長い時間、取材を受けたのですが、記事としてはほんの少し。
記者は一つの記事を書くのに大変な時間を費やしていることに頭が下がります。
中外日報20170714_3面

『愛猫とずっと一緒に、幸せに 長生き猫の暮らしとお世話』

猫も高齢化の時代、いかに猫を介護するか、看取るか、ということに悩む飼い主も出てくることでしょう。そんな人に向けて、住職の姉が『愛猫とずっと一緒に、幸せに  長生き猫の暮らしとお世話』という本を編集いたしました。我が家の猫(17歳)の写真がたくさん掲載されております。高齢猫と暮らされている方、是非、お手元に。
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東京新聞

過日、お知らせいたしました自死者追悼法要ですが、おかげさまで滞りなくお勤めすることができました。当日は72名の参列をいただきました。
法要の告知を兼ねて、東京新聞さんが6月6日付朝刊で記事にしてくださいました。
法要の趣旨が少しでも多くの方々に伝わればと私も取材を受けました。
東京新聞朝刊20170606(PDF)

会うは別れの始め

ずいぶん時間が経ってしまいましたが、寺報『信友』205号を檀信徒の皆さまに郵送いたしました。巻頭文「会うは別れの始め」を転載いたします。
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三月のお彼岸の法話でもお話しましたが、昨年十月に入籍をした時のことです。(※)
多くの人はバラ色の人生を思い描いて、幸せの絶頂になるのでしょう。しかし、私がまず思ったことは、「いずれ、どちらかが喪主をつとめるんだなぁ」というもの。決して暗い気持になったわけではありません。責任の重さというのか、一人の人生を預かり、自分の人生を預けるということを実感したのです。
もう一つ思ったことは、「妻の親族に不幸があれば、私も遺族になるんだなぁ」です。家族が増えるということは、遺族になる可能性もその分増すわけです。当たり前といえば当たり前なのですが、自分でも「なんでこのタイミングで?」と不思議な気持ちでした。
一般の友人に今挙げた二つのことを話すと、「なんでそんなこと思うの?」と不思議がられます。我ながら、変わっていると思いました。きっと職業病というものなのでしょう。常に「死」というものを考えてしまうのです。人生、思い通りにはいかない、良いことばかり続くわけがないと、どこかで冷めて見ているのが習性。
ところが、知人の牧師は、「それは良いことですよ」と言ってくれました。なぜなら、「結婚とは入籍や挙式の時をいうのではありません。それは始まりに過ぎないのです。死別にしろ、離婚にしろ、その時に結婚は完成するのです。だから、喪主の想像をすることは、間違いではありません」と。結婚については一日の長があるキリスト教だけあり、なんだかとても説得力のある言葉です。親族との付き合いだって、死別によって完成するとも考えられますね。
愛別離苦とは、私たちが生きているうえで避けられない苦しみの一つ。字の通り、愛する人と必ず別離をしないといけない苦しみ。お釈迦さまが二六〇〇年前に言った言葉です。
結婚に限らず、私たちはどこかで誰かと出会い、友達として、仲間としてお付き合いをしていきます。家族・親族もしかりです。そして、信友のみなさんもしかりです。蓮宝寺をご縁として、住職と檀家さんとしてお付き合いをさせていただく。でも、そのお付き合いには、必ず「別れ」が潜んでいます。別れによってお付き合いが完成するのだとすれば、しっかり完成させたいものです。どんな完成がやってくるか分かりませんが、信友の方が亡くなれば、私はしっかりとお見送りをさせていただきたい、私が亡くなれば、見送りに来ていただきたいと思います。その時、「いい住職だったね」と言ってもらえるような人間になっているのだろうか。わが身を振り返り、気を引き締めます。
あ、妻にも「いい旦那だった」と思ってもらえるようにしなければ……。
(※)住職、昨年10月に結婚いたしました。