春の彼岸法要ご報告

今年は桜が早く、東京では4月を迎える前に散り始めていますね。妻の実家の秋田では、有史以来はじめて入学式に桜が咲くのではと大騒ぎだそうです。(例年、秋田では4月中旬以降の開花なのです)

さて、3月19日に春の彼岸法要をおつとめいたしました。前日は大雨でどうなることかと思いましたが、19日は晴れ間も見えるちょうどよい気候でホッと一安心。

午後1時からの法話では、コロナ禍のなかでお亡くなりになった岡江久美子さん、上島竜兵さん、アントニオ猪木さんという私が愛してやまない人たちに思いを馳せながらのお話、増上寺の御忌法要で気絶しかけた恥ずかしい話など、あまり法話とは言えないような内容で失礼いたしました。精進したいと思います。

午後2時からは、いつものように虎ノ門・栄立院の福西上人に雅楽(笙)を演奏してもらい法要がスタート。お申し込みをいただいた180のご回向ならびに永代供養の各霊位のご回向をさせていただきました。

法要には29名の参列をいただき、法要には間に合わなかったものの、寺にお寄りいただいた方々も合わせると40名近いお参りでした。昨年の秋の彼岸法要には25名でしたので、少しずつコロナ以前に戻ってきているのかもしれません。お持ち帰り用の軽食を数日前に思い立って10個追加したのですが、結果的にピッタリで、自分の勘を褒めてあげたくなったほど。数年ぶりにお顔を拝見できた方も多くて、住職としてはとても嬉しい彼岸法要でした。

また、法要翌日に多磨霊園にお塔婆をあげてまいりました。その際に、古く変色しているお塔婆(だいたい昨年の春彼岸~夏施餓鬼にあげたものが目安)を私の方で撤去しております。母の生前は毎年末に自転車でかけまわって行なっていたのですが、昨年末は私がウッカリ失念しておりました。ご海容ください。

なお、施餓鬼法要は7月8日(土)を予定しています。次号の信友であらためてご案内いたします。

これから春本番となりますが、まだ昼夜の寒暖差がございます。くれぐれもご自愛ください。

本日の彼岸法要

台風一過の好天に恵まれた本日ですが、彼岸法要は14時前後からの開始になります。
(おそらく13時50分くらい?)

YouTubeライブ中継は以下のURLになります。

施餓鬼会法要ご報告

7月に入ってからの第7波の拡大スピードに唖然としてしまいますね。
講師をしている大学でも、この2週間で「濃厚接触者になったので欠席します」、「発熱があるのでオンラインで受けたい」という学生が急に増え出しましたし、身近な知人・親類にも感染者があり、明日は我が身と感じています。

そのようななかで、7月10日の施餓鬼法要を迎えました。第7波の到来に「やはり無参拝に変更すべきか」ということに頭を悩ませるようになりました。最終的には、政府が行動制限の必要なしと言うので、予定通りの開催にいたしました。

第7波を懸念して参列を取りやめる方もいらっしゃるだろうから、10人くらいの参列ではないかという予想もしたのですが、蓋を開けてみますと、28名ものご参列をいただくことができました。コロナ前はお弁当を召し上がっていただくのが通例でしたが、飲食は控えた方が良いだろうということで、今回はペットボトルのお茶とカツサンドをご自宅にお持ち帰りいただく形に変更いたしました。

法話も無参列法要では省略していましたので、2019年9月の彼岸法要以来の2年半ぶり。どうやって話していたのか勘が取り戻せずに、しどろもどろ……。次回はもう少しちゃんと話せるように準備しておかなくてはと反省しております。法要では、お申込みいただきましたご回向もしっかりさせていただき、お塔婆も翌日午前中までに全て立てております。

第7波がいつまで続くのか、秋の彼岸法要を考えると悩ましい問題です。ただ、いろいろと心配は尽きませんでしたが、やはり檀信徒のみなさまにお集まりいただくことは、純粋に嬉しいものでした。できる限りの感染対策をして、今回同様の形式での開催を目指しております。

まだまだ暑い日が続きます。くれぐれもご自愛くださいませ。

今年の施餓鬼法要

今年の施餓鬼法要は7月10日(日)に開催いたします。
一昨年・昨年は無参集で開催いたしましたが、今年はコロナ前同様の形で実施しようと考えています。
ただし、これまでのお弁当とお茶の提供は無しとしまして、13時法話、14時法要というプログラムにしたいと思います。
もちろん不安のある方は無理をしてご参集いただく必要はございません。
後日、檀信徒のみなさまには報告書の送付とYouTubeに動画をアップいたします。

春の彼岸法要ご報告

新型コロナウイルス第6波が徐々に落ち着いてきているようですね。一方で、日々のウクライナのニュースは痛ましい限りです。平和な日常生活が破壊され、罪のない人々の命が絶たれる事態が一日も早く収束することを願ってやみません。

さて、春の彼岸法要を3月19日14時よりおつとめいたしました。コロナの状況をふまえて無参拝という形をとりましたが、檀家総代さんをはじめ、7名のご参列をいただきました。

また、今回はYouTubeライブを使用した、オンライン生配信を試みてみました。前日に配信予約をして、ホームページにも案内を出したのですが、開式10分前にそれが使用できないことが判明し、大慌てで設定をし直しました。若いつもりでいても、世の流れについていけていないことを実感……。ご視聴いただいたみなさま、お騒がせいたしました。

写真のように、いつも通りお塔婆を並べ、法要中、塔婆供養もいたしました。お申込みいただきましたご回向もしっかりさせていただいております。法要当日は荒天だったため、翌日にお塔婆を多磨霊園内各墓所に立てさせていただきました。

法要の様子をYouTubeにアップロードいたしました。

みなさまが心身ともにお健やかでありますようお祈り申し上げます。

追伸

母の四十九日法要を3月21日に家族のみでおつとめいたしました。よくわかっていないながらも、手を合わせていた娘。母も喜んでくれたかな?(笑) 納骨は新盆に合わせて行う予定です。

春の彼岸法要について

今回の彼岸法要はYouTubeライブを使用して、中継したいと思います。
以下のリンクをクリックしていただき、ご覧ください。
限定公開にしていますので、檀信徒のみなさんのみでご視聴いただければと思います。
はじめての試みなので、接続不良など滞ることも十分ありえます。
あしからずご了承いただければ幸いです。

 

お線香リニューアル

昨年2月の寺報にお線香を同封したのですが、今回、より親しみやすいパッケージに変身いたしました。

前回の試みについては、こちらをご覧いただきたいのですが、コロナ第6波でまた檀信徒のみなさんに集まっていただく機会が1年間ないことになってしまいましたので、仏様とのご縁をつなぐ意味も込めて、寺報に同封した次第です。

姉が以前、何の気なしに描いた仏様の絵を用いてみました。

力の抜けた感じが蓮宝寺らしくていいなと。

中には2種類のお線香が3本ずつ入っております。

手紙法要

府中市内で活動されている自死遺族の自助グループ「雨宿り」さんとご縁をいただきまして、1月13日に追悼法要をおつとめいたしました。

みなさん、亡き方へのお手紙を持参され、法要中、仏前にお供えしていただきました。

法要に参加された方が感想をブログにお書きになっていたので、本ブログでもリンクを掲載させていただきます。

手紙法要を終えて | 自死遺族の集い 雨宿り (ameblo.jp)

また会いましょう

寺報『信友』225号の巻頭「また会いましょう」を転載いたします。

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このたび、母・小川貞子(ていこ)の逝去に際して、多くの方にご弔問、供花・ご芳志を頂戴し、誠にありがたく、心より御礼申し上げます。2月16日に近親者にて葬儀を済ますことができました。

母について思いつくままに記してみたいと思います。

母は1938(昭和13)年10月11日、日本橋蛎殻町で9人兄弟の六女として生まれました。下町育ちらしい、快闊で誰とでも打ち解ける性格で、その性格は住職夫人として大いに活かされ、多くの檀家さんの方々と寺檀関係を超えた、心の交流をしていたように思います。情に厚く、檀家さんの訃報があれば涙を流し、枕経や通夜への同行や、個人としての香典を私に託すことも多々ございました。

スポーツなどは全くしない人でしたが、80歳になるまで、ほとんど病気らしい病気をしたことはなく、自転車でずいぶん遠くのスーパーまで買い物に行っていました。自転車といえば、彼岸法要や施餓鬼法要の後には、荷台に数十本の塔婆をくくりつけ、多磨霊園中を立てに回っていました。私が車で運ぶようになってからも、80歳手前まで、私の目を盗んでは出動していました。

1972(昭和47)年に父と結婚するのですが、先々代の住職夫妻は明治生まれで、現代のような優しい舅・姑ではなく、一般家庭から嫁に来た母は寺のしきたりに大変な苦労をしたようです。亡くなる寸前まで、その苦労を語っていましたし、古い檀家さんも「お嫁さんがやつれていてかわいそうだった」とおっしゃりますので、相当な忍耐を強いられたことでしょう。そんな苦労のなかでも、姉と私には常に慈しみ深く、懸命に育ててくれたことは感謝してもしきれません。

父は母がいないと全くダメな人でした。お互いに下町生まれでしたので、よく口喧嘩はしていましたが、落語に出てくるような微笑ましいものでした。喧嘩をしていても、常に父の側にいて、父のわがままをきいてあげる良妻であったと思います。

そんな父を87歳で看取ったのが2015年12月、母は77歳でした。翌年に私も結婚。これまで寺のため、父のため、子のために人生を費やしていた母にも、やっと自由気ままな後半生がやってきたように思いました。姉が年に数回は旅行に連れ出し、大好きなジュリーのコンサートにも気兼ねなく足を運んでいました。

しかし、2018年春、肺がんと悪性リンパ腫が判明。肺がんは手術で無事に寛解、悪性リンパ腫も経過観察ということになりましたが、2020年に入り、悪性リンパ腫が悪化し、数か月のうちに体重が10キロ以上も減少してしまいました。

2020年7月から抗がん剤治療を開始。ここからは、入院治療、自宅療養、そして再発ということの繰り返しでした。もうトータルで何日入院をしていたのか、数えられないほどの日数を病院で過ごしました。抗がん剤の体への負担はもちろんですが、コロナ禍で面会禁止の入院はどれだけ母に寂しさ、心細さを与えただろうかとコロナが憎らしく思えてきます。

2021年9月末からは新薬の抗がん剤にチャレンジするも、副作用が激しく、40度の高熱が数日続く中で、母は主治医に涙ながらに退院を訴えていました。主治医もこれ以上の入院治療は心身共にマイナスが大きいと判断し、10月下旬から在宅緩和ケアに移行しました。

退院当初は歩行もままならず、私たちもこれは年を越せないだろうと諦めの心境でいましたが、家に帰ってきた安心感や孫とのひとつ屋根の下での生活の楽しさが奏功したのか、次第に体力を回復し、一人で入浴ができるまでになりました。11月下旬には、両親の墓参のために信州に一泊旅行、さらに今年の1月7日には国際フォーラムでのジュリーのコンサートにも行けました。

まだまだ元気でいられると楽観していた矢先の1月17日から、発熱が続くようになります。投薬をしてもなかなかおさまらず、訪問医の診立ては「悪性リンパ腫の再発」、「早くて1か月、長くて2か月」でした。一番恐れていた事態になりましたが、長期入院の影響で若干の認知症になっていた母が、自分が重篤な病であることを忘れていたのが、家族には救いでした。死期が迫っている悲壮感はなく、食事量が減り、ただ「眠い」「くたびれた」と言って、横になる時間が増えていきました。

2月4日の午前、お手洗いに行くと下血が確認され、訪問医の緊急診療を受けると、「おそらく解熱剤の副作用による胃潰瘍」とのこと。医師からは、「病院に行き、処置をすれば治る可能性はあるが、再び面会禁止の入院になるし、もう家に帰ってこられない可能性もある。そもそもの体力の低下があるので処置が成功したとしてどれだけ生きられるか保証はできない。処置をしなければ、あと2、3日だろう」と説明を受け、私たちは在宅で看続けることを選択しました。あれほど退院を切望していた母を再び入院させることは、とても酷なことに思えました。

4日の夜、私が1歳半の娘を寝かしつける前に母のベッドサイドに連れていくと、母は「バイバイね」と娘に手を振りました。しっかり意識があるから、まだ大丈夫だと思っていたのですが、それから5時間後の翌5日午前1時半に息を引き取りました。寝たきりになって半日足らず。本当にあっという間の旅立ち、せっかちな母らしいものでした。

そして、「ああ、自分の思った通りに逝ったな」と思いました。母は入院中、「病院はトイレに一人で行かせてくれないのよ」とずっと不満を言っていました。「自分の足で歩いてトイレに行く。下の世話を他人にされるなんて真っ平御免」これが母の譲れない尊厳でした。在宅緩和ケアに移行した当初、トイレに行くにも足元のおぼつかない母に手を貸そうとすると、「大丈夫だから!」と杖で払いのけられたことが思い出されます。4日の午前中まで自力でなんとかトイレに行くことができましたが、午後からは体を起こすことも困難になっていきました。きっと、これから2、3日、オムツになって子供たちのお世話になるなんて私は絶対にイヤよと思っていたはずです。姉と私と妻の三人に看取られながら、母は自分の意志を貫いて旅立ちました。

せめて父の壽命の87歳までは生きて欲しいと願っていましたし、なんで苦労した母がこんな厄介な病気になってしまったのかと運命を恨んでしまうこともありました。ただ、今は、不思議と心残りなく、穏やかな心でいられています。母自身が病気という運命を受け入れ、頑張り切ったのだと思えるからでしょう。母が生き方と逝き方を身をもって教えてくれたような気がしています。

父が亡くなった時には「親父、あなたは幸せ者だったよ」と思いましたが、母が亡くなった今は「母ちゃん、俺は幸せ者だったよ」と思います。偉大な母に感謝の念を捧げます。

母の荷物を整理していましたら、友人への手紙の下書きが見つかりました。父の遺品の万年筆で書いたもので、乱れた字になっていますが、みなさんへのメッセージにも思えて、写真を掲載いたします。

「又いつかゆっくりお話が出来ることを楽しみにしております」

今頃、父をはじめ先に旅立った人たちと再会を果たしていることでしょう。私もいつかゆっくり話ができることを楽しみにしたいと思います。