親父ゆずりの

11月に発行した寺報『信友』の巻頭「親父ゆずりの」を転載いたします。
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前号の『信友』をお送りしてから、関東地方は九月に台風一五号、十月に一九号と立て続けに襲われ、大きな被害を生み出しました。信友の皆さまのなかにも、大小問わず被害に遭われた方もいらっしゃることでしょう。お見舞いを申し上げます。

蓮宝寺では、昨年、皆さまのご協力のおかげで屋根を改修していたこともあり、大きな被害はございませんでした。ただ、府中市も一九号の際は多摩川沿岸には避難勧告が出され、胸がざわつく一日でした。

さて、災害が続き、暗いムードの日本を元気にさせてくれたのがラグビーでした。私もご多分に漏れず、にわかファンになって、テレビの前で歓声をあげていました。

実は、府中市には東芝とサントリーというラグビーの強豪チームがあり、市は「ラグビーの街・府中」をしきりにPRしているのです。日本代表キャプテンのリーチ・マイケル選手も市内在住のようで、私もショッピングモールで娘さんをあやしている姿を見たことがあります。

そんなこんなで、「素晴らしい闘いだった!」と人並みに興奮した私ですが、やってみたいとは全く思いません。痛そうだし、怪我をしたくないし、そもそももう若くないし……。それだけでなく、より根本的な理由は、チームプレーが苦手ということ。

日本代表チームのテーマがONE TEAM(ワンチーム)だったように、ラグビーは一致団結、みんなで力を合わせなくてはなりません。まさに、オール・フォー・ワン、ワン・フォー・オール(すべては一人のために、一人はすべてのために)です。

私はというと、小さい頃から集団行動が苦手。もともと運動神経が悪いので、運動全般が得意ではないのですが、サッカー、バレーボール、バスケットボール等々、チームで行うスポーツは全て苦手。小学校のドッチボールですら嫌でした。

自分の失敗がみんなに及ぶのも、他人の失敗が自分に及ぶのも嫌なのです。オール・フォー・ワン、ワン・フォー・オールの真逆の人間。

しかし、そこまで協調性がない人間とは私自身、思えません。運転免許の適正検査でも、まあまあの人格者らしき結果が出ますし、忖度や斟酌もよくします。

では、なんでチームプレーが嫌だったのだろうと思い起こしてみると、勝つことに興味がないことが原因だったのではと思えてきました。

みんなが勝利を目指して、頑張って、なかにはムキになって仲間にも激を飛ばしたり、しかりつけたりする人もいます。そんな中で、私は「別に命が取られるわけじゃないんだから」とか、「勝っても負けてもどっちでもいいじゃねえか」と全くヤル気が湧かないのです。

少年時代に夢中になって観ていたプロレスでも、猪木や馬場よりも、最後は負ける悪役レスラーに心惹かれるものがありましたから、勝者に魅力を感じないのかもしれません。そして、何より、みんなで一つの目標に進もうというのが、どうも気持ちが悪い。何か違うものの見方ができないものかと考えてしまうへそ曲がりなのです。

ここまで書いてきて、亡き父もそんなへそ曲がりだったなと思い出しました。偏屈といえば偏屈、大多数の意見には懐疑的、集団行動も好きではありませんでした。

それは少年時代に色々とつらい経験をしたことも影響しているでしょうし、軍国少年として育ち、突如それらが偽りだったと知ったことによる世の中への不信もあったと思います。しかし、多勢よりも無勢に、強者よりも弱者に心を寄せる人でもありました。

私のチームプレー嫌いと悪役レスラー好きは、どうやら父からの遺伝であったようです。

ラグビーの話から、どういうわけか父の話になってしまいましたが、『信友』執筆のおかげで、亡き父と触れ合えた心地です。

そういえば、間もなく四回目の命日。小学校から高校までバスケットボール部だった妻と墓参りに行ってきます。

東京のお盆が変わる?

今月に発行した寺報『信友』の巻頭「東京のお盆が変わる?」を転載いたします。
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東京のお盆は一般的には7月。しかし、「お盆休み」といえば8月を指すように、日本のほとんどの地域では8月中旬がお盆となっています。

このズレは、明治5年12月3日が明治6年1月1日になったことに由来します。そんなことをいきなり言われても、なんのことかチンプンカンプンな方もいらっしゃるでしょう。

明治5年12月2日までは、太陰太陽暦という、いわゆる旧暦を採用していた日本。明治維新で開国をして、欧米と付き合うのに、カレンダーが一致しないのは具合が悪い。それじゃあ、欧米が採用している太陽暦(新暦)に合わせましょうとなったのです。

新暦の元日が、旧暦の12月3日だから、そこでカレンダーを取り換えちゃおうという、ずいぶん無茶なことをしたのですね。当時の人たちは正月の準備もままならなかったことでしょう。明治維新は、庶民の生活にも大きな変化をもたらしたわけです。

お盆もご多分に漏れず、もろに改暦の影響を受けます。旧暦の7月15日前後におこなれていたお盆。この時期は、夏の収穫が終わった農閑期。お盆に夏野菜をお供えするのは、収穫をご先祖様に感謝する意味もあったのです。

暦が変わって、農作業のスケジュールも変わるでしょうか?

答えはNOです。自然は私たちの都合に合わせてはくれません。農業国である日本のほとんどの地域では、一ヵ月早まっている新暦の7月は、収穫に向けて最も忙しい農繁期。親族が集まって、ご先祖様をお迎えする余裕はありません。

そこで、多くの地域では、新しい7月にお盆を行わず、旧暦7月のお盆を維持したわけです。東京や横浜などが、今、7月にお盆を行っているのは、農作業に影響されないサラリーマンの多い地域だったからということです。

蓮宝寺では、7月に盆供養を兼ねた施餓鬼法要を行うため、ご自宅にうかがいお盆の読経をする「棚経」は、あまり多くはありませんが、8月の棚経はさらに少ないのが通例でした。

しかし、近年、8月の棚経が少しずつ増え、ついに今年は、7月を超えました。

「8月盆の地域で過ごされていた方がお仏壇と共に東京に移られてきた」、もしくは、「東京に移られて来た第1世代の方がお亡くなりになった」ということが考えられます。

8月盆に慣れ親しんだ方が、東京の7月盆にピンと来ないのは無理もありません。改暦とお盆の関係に象徴されるとおり、私たちの生活リズムと切っても切れないのが、お盆。

明治の人たちが、「暦が変わってもお盆は動かせない」と感じたように、令和は「所が変わっても、お盆は動かせない」と感じる方が増えるのではと予想されます。

亡き方々を迎えて、もてなすお盆。今もつながるご縁を感じられる情緒ある行事です。できるだけ、みなさんのご要望にお応えできるようにしたいと思います。

三つの言葉

今月に発行した寺報『信友』の巻頭「三つの言葉」を転載いたします。
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春のお彼岸でもお話したように、二月に大学の仕事で台湾に行ってまいりました。

台湾では、終末期の患者さんの病床に、訓練を受けた僧侶が出向き、患者やその家族の不安や悩みを聞いたり、死後の世界について話したりすることが普通に行われていて、その視察が主目的。日本の東京大学医学部に相当する台湾大学医学部や附属病院、訪問看護ステーションならぬ訪問僧侶ステーションといった雰囲気の寺院など、いろいろな施設を尋ね、医師や僧侶に話を聞いてきました。

学ぶことの多い旅ではありましたが、一番印象に残ったのは、「善終」という考え方。簡単にいえば、「良い死に方」です。これは死ぬ人と見送る人(家族)、双方が満足するものでないといけないようで、台湾人は「善終」に強い理想を持っているとのこと。では、どうしたら「善終」を達成できるのでしょう。

ある医師は、「医者と看護師は体のケア、心理士とボランティアは心のケア、僧侶は善終のケア。やることは分かれてます」と言います。「善終」は、僧侶が担うのです。

「善終」のためには時間をかけて、丁寧に患者とその家族に寄り添う必要があるのですが、患者と家族、双方にわだかまりがあるなら、それを解消することがとても肝要だそうです。もちろん、その仲介を担うのも僧侶です。

たとえば「家族を大事にしないお父ちゃんで悪かった」と詫びたいけれど、照れくさいと聞けば、家族の気持ちを尋ね、解きほぐして、和解に導くのが僧侶の役目。こんな家族の歴史的瞬間に何度も立ち会ってきた僧侶は、「善終」に大切な三つの言葉を教えてくれました。

「ごめんなさい」

「ありがとう」

「愛している」

我が身におきかえて考えれば、たしかに、胸のつかえを無くして、感謝を伝えて旅立ちたいし、見送りたいものです。

しかし、照れくささや気まずさでなかなか口に出せないのも現実。かく言う私も、臨終が迫った父に、三つのうちの一つもかけることはできませんでした。死を間近にしていても、私たちはそう簡単に正直にはなれないのかもしれません。

とはいえ、老少不定、いつ死ぬかなんて年の順とは限りませんし、朝に元気でも、夕には死ぬかもしれないのが私たち。死は常にすぐ鼻の先にあると思って、なるべく素直に、気持ちを伝え合いたいものですね。

ジュリーと禅

今年2月に発行した寺報『信友』の巻頭「ジュリーと禅」を転載いたします。
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昨年の十月、テレビや雑誌をにぎわせたのが、ジュリーこと沢田研二のドタキャン騒動。みなさまのご記憶にも新しいことでしょう。

定員九千人の会場が七千人しか埋まらないと聞いたジュリーが、約束が違うとヘソを曲げてしまったというお話。会場まで足を運んだ観客の気持ちを考えていない、ファンあっての仕事なのにけしからん等と多くの批判が浴びせられました。それと同時に、変わり果てた、ケンタッキーのおじいさん(カーネル・サンダース)のようなジュリーの風貌も話題になりました。

一方、信友のみなさまからは、ジュリーファンの私の母に対して、ご心配をいただきました。法事にお越しの際に、「お母さん、大丈夫でした?」と口々に尋ねられ、ジュリー好きがこんなにも浸透しているのかと驚きつつ、母の気持ちを案じてくださることをありがたく思ったものです。

母は、幸いにして、当該公演には行っておらず、直接の被害はありませんでした。むしろ、毎日、テレビをつければジュリーが映るので、上機嫌。そして、「こういう頑固なところがジュリーらしいのよ!」とますますジュリー株は上昇していました。

たしかに、コンプライアンスがどうのこうのと厳しく言われ、芸能人も小粒になっている昨今、七千人の客がいても、「俺は歌いたくない」と我を通せる人はそういません。そんなジュリーを見ながら、私はふと禅宗のエピソードを思い浮かべました。

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瑞巌(ずいがん)の彦(げん)和尚、毎日自ら主人公と喚(よ)び、復(ま)た自ら応諾す。乃ち云く、

「惺惺著(せいせいじゃく)、喏(だく)。他時異日(たじいじつ)、人の瞞(まん)を受くること莫(な)かれ、喏喏(だくだく)」

(訳)師彦和尚はいつも庭前の石上に坐り、大声をあげて自問自答します。

「主人公よ」、「ハイ」。「目をさましているのか!主人公がお留守になっていないか!」、「他人のうわさ話を気にするな!主人公を見失うなよ!」、「ハイハイ」

http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/070701.html
(臨済宗・黄檗宗の公式サイトより)
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このエピソードは「主人公」という言葉の由来とされています。今は主役のように用いられる「主人公」ですが、ここでは、本当の自分、主体的な自分という意味。つまり、常に自分自身に「目を覚ましているか?」、「周囲に振り回されていないか?」と問い続けることが大事なんですね。

禅の境地とは、世の中の常識や価値観に振り回されず、自分で自分の人生を歩み切るというもの。私は、ジュリーのドタキャン騒動に、周囲におもねらない「主人公」の姿を見たのでしょう。

それにひきかえ、私たちは、常識や世間体を気にして、物事を考えてしまいがち。窮屈に思いながらも、そうせざるをえないのが私たちの哀しい性(さが)。世の中のジュリー叩きも、どこかに、「そんな風に自分を譲らないで生きてみたいよ」という羨望のまなざしが混じっていたのかもしれません。

ジュリーのようにはいきませんが、私たちも自分の人生の「主人公」として、自問自答しながら生きてみたいものですね。

ちなみに、ジュリー騒動の母なりの結論は、

「あんな頑固な男とは結婚できないわね。」

母はしっかり主人公として生きているようです。

祖母の涙

昨年12月に発行した寺報『信友』の巻頭「祖母の涙」を転載いたします。
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平成31年4月末日をもって、「平成」が終了するそうです。次の元号は分かりませんが、来年5月以降に生まれる子たちからすれば、昭和52年生まれの私も、はるか遠い「昭和時代のおじさん」ということになるのでしょうか。

昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御された時、私は小学校5年生の冬休みでした。

前年の暮れから、昭和天皇の容体悪化にともなって、世の中は「自粛」ムード。一方、私はというと、ニュースを見ながら、「下血ってどういうこと?」と父親に尋ねたことを思い出します。父も「今日はかなりの下血だな」などと、他人事のような口ぶり。それくらい、我が家ではのんきに傍観していたものです。

新年を迎え、三が日を過ぎた頃から、風邪を引いてしまった私。結構な高熱でフーフー言っておりました。

近所の医院の診察開始が1月7日ということで、その日は朝一番で母と出かけました。診察が終わって会計を待っている間、患者さんと院長夫人の会話が聞こえてきます。

「今日で昭和も終わりだから……」

テレビをつけないまま家を出てきた母と私は目を見合わせて、

「あれ?」

会計を済ませ、一目散に帰宅しました。

そして、家に戻って見た光景は30年経った今でも忘れられません。

テレビを観ながら、父と祖母が涙を流していたのです。あれだけ下血だなんだと冷やかしていた父。政治のことなど口にしたこともなかったノンポリの祖母。特に、祖母は祖父が亡くなった時も泣いていた記憶がないほど、涙と縁遠い人でしたので、とても戸惑いを覚えました。

「え?なんで泣いているの?そんなに悲しいの?たいして敬ってなかったじゃないさ」と思いつつ、ここは何も言わない方が良さそうだと斟酌した私ですが、大人になり、歴史をかじるようになり、また、父と酒を酌み交わして昔話を聞くようになって、あの光景が腑に落ちるようになってきました。

昭和3年に生まれた父にとって、昭和20年まで天皇は神様であり、青春時代を昭和天皇のために捧げたようなものでした。祖母も、祖父が浅草の寺の住職をつとめていた時代に東京大空襲に遭い、火の海の中、ご本尊をおんぶして逃げ出したといいます。しかし、時代に翻弄され、戦争で散々な目に遭いつつも、昭和天皇に対する感情は憎しみとはなりえなかったようです。

父はよく「今の陛下は戦争を知らないから、どうも認める気持ちが起きない。昭和天皇が俺にとっての最後の天皇なんだ」と口にしていました。戦争、敗戦、復興という苦難の時代を共に生き抜いてきたという思いが、恩讐を超えて、父や祖母の涙に込められていたのもしれません。まさに象徴だったのでしょう。

平成の御代は幸いにして戦争はないものの、阪神大震災、東日本大震災、その他、大規模な自然災害が続発、景気も下降し続けた時代でした。今上陛下もまた、苦難の時代を国民とともに生きる姿を示してこられたように感じます。

次の御代はどのような時代になるか想像もつきませんが、「俺は戦争や大災害を天皇陛下と共に生き抜いたんだ」と涙を流す必要のない平和な時代になることを切に祈ります。

父の執念

8月に発行した寺報『信友』の巻頭「父の執念」を転載いたします。
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施餓鬼法要にお参りいただいた皆様にはお話いたしましたが、春先に母に肺ガンが見つかりました。

そもそもは、喉にデキモノができたために、CTスキャンを受けたところ、たまたま肺に小さな影が写ったというもの。ステージ1のAというきわめて初期のものらしく、耳鼻科の医師も「この段階で見つかるのはラッキーですよ」と言うほどです。
とはいうものの、母の頭には「ガン」という言葉しか残っておらず、私や妻が懇切丁寧に説明をしても、「ガン」と「ラッキー」が結びつかない様子です。「この年で手術なんてしたくない、何もしないでいいわ」と落ち込む母に、一つの光明が差し込みます。

肺がんの診察のため、初めて呼吸器外科を受診した日のこと。大学病院で長時間待たされ、やっと「小川さん、診察室にお入りください」と呼ばれました。担当となるT先生は、年のころは五十歳にさしかかるくらいでしょうか。キリっとした目つきにスッキリした輪郭。歌舞伎役者のような顔立ちに、明るさと気さくな雰囲気をまとい、一目で「この人は優秀な先生だろうな」と思わせます。

T先生は分かりやすく病状を説明し、「早期に発見できて良かったですよ、手術は難しくないので一緒に頑張りましょうね」と握手をして励ましてくれました。

帰り道の母の表情は、それまでと一変、「あの先生なら大丈夫そうね」と明るく話します。以後、診察でT先生に会うたびに、信頼も増していきます。やはりイケメンは何事も得をするのですね。僧侶も医師も、見た目が大事だと肝に銘じた次第です。

さて、運命の手術日、七月十八日がやってきました。九時には病室から手術室に移動します。T先生からは三時間ほどで終わるでしょうと伝えられていましたので、半休をとった姉と二人、待合室で待機です。十二時、まだ出てきません。十三時、まだです。十四時、まだです。いったい何があったのだろうかと不安になりますが、緊急事態であればとっくに連絡が来るでしょうし、とにかく待つしかありません。さすがに出勤しなければと姉が待合室を出た矢先、十五時ちょっと前、手術終了の連絡がありました。

T先生からの説明によると、ガンの切除自体は順調に進んだものの、縫合に時間がかかったとのこと。縫ったところから空気が漏れ出し、縫い直せば、違う部分が破れて、空気が漏れる。そこをつまんでは縫ってを繰り返して、こんな時間になってしまったそうです。どうも母の肺の表面組織が弱かったようで、先生からこんな一言が出ました。

「お母さん、タバコ吸っていました?肺にタバコの斑が出てました。」

思わず、姉と顔を見合わせてしまいました。母はおそらく生涯で一服もタバコを口にしたことはありません。ひとつだけ考えられるのは、四十数年、共に暮らした父からの副流煙。

ことの顛末を聞いた私の妻は、「いつまでもお父さんはお母さんに構って欲しい、忘れないでって想いが伝わるね」と笑いました。ヤキモチ焼きの父のことです。イケメンドクターを手こずらせたかったのでしょう。アッパレとは思いませんが、死してなお父の執念を感じた一幕でした。

母の術後の経過は順調で、秋の彼岸会では元気な姿を信友の皆様にお見せできると思います。皆様もこまめな検診を心がけ、副流煙にはお気を付けください。

お寺はサービス業?

今年の5月に発行した寺報『信友』の巻頭「お寺はサービス業?」を転載いたします。
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春のお彼岸も過ぎた頃でしたか、後輩の僧侶二人と話をしていて、考えさせられたことがありました。

二人のうち、A君は浄土宗、B君は浄土真宗。いずれも山手線の内側にある、立派なお寺を預かる身です。

まず、A君。彼のお寺に墓所がある檀家さんが、「よそで葬儀をしてきたから、戒名をつけて、埋葬させてくれ」と言ってきたのだそうです。

それだけなら、突然の出来事に菩提寺に連絡を取る暇もなく、いわゆる直葬という形を取ってしまったのかもしれません。たまに耳にするお話です。

しかし、聞けば、その檀家さん、二回目なのです。以前にも、安く済ませたいからなのか、信仰心がないからのか、もうお骨にしてしまった後で、埋葬したいとお寺に連絡が。A君は、「お寺の墓地に埋葬できるのは、住職が戒名を授けて、引導を渡した方に限ります」と答えて、四十九日法要の際に戒名を授け、引導を渡して、納骨にたどり着きました。

僧侶側からすると、住職が日々、守っているお墓なのだから、ちゃんと信仰に基づく葬儀を行って埋葬してほしいと思うもの。つまり、一回目は救済措置だったわけです。

ところが、その檀家さんには真意は伝わらず、戒名も引導も埋葬に必要な手続き程度の認識だったのでしょう。二回目も全く悪びれることなく、唐突にお寺を訪ねてきたという次第。お骨の行方を思えばむげに断るわけにもいかず、信仰心は無いであろうその家族にどう理解してもらえばよいか、頭を抱えていました。

さらに悲しいことに、そのお家は古い檀家さんとのこと。世代を経る中で感覚が変わってしまったのでしょうか……。

続いてB君。ある日、墓参に来た家族の一人にこう尋ねられました。

「ここ、ジュースの自動販売機、無いんですか?」

B君が「無料のウォーターサーバーならありますが、自販機はありません」と答えると、その方は家族に向かって、「自販機も無いんだってよ」とあきれたように言ったそうです。B君は「あきれるのはこっちですよ」とぼやいていました。

幸い、私はそのような経験はまだありませんが、どうしてそういう事態が起こるのでしょう。A君もB君も真面目な僧侶です。怠けているからとは思えません。

一つには「お墓ありき」の問題がありそうです。檀家さんの側には、寺・僧侶と関係を築いているという意識が薄く、まず「お墓ありき」なので、住職を霊園の管理人程度に考えてしまっている節がある。だから、霊園の休憩所に自販機があるのは当たり前、「なんでこの寺にはないんだ?」と不満が生まれてしまうのでしょう。

それに加えて、意識がお墓で止まってしまうので、葬儀や法事の意味にも関心がわかないのかもしれません。意味が分からなければ、やる気も起きない、信仰のきっかけも作れないという悪循環です。

A君は「寺をサービス業と思っている人が増えている」と嘆きます。「管理費を出してるんだから、それに見合うサービスを」という感覚で「納骨させろ」と言ってくる。「寺は究極のサービス業」と言うことがありますが、それは人生での苦しい時、悲しい時に心と心を触れ合わせるという意味でのこと。お金の対価としてサービスを提供するサービス業とは一線を画すものです。(もちろん、サービス業に従事されている方は、対価以上の無形のサービスを提供しようと努力されていることは承知しておりますが。)

二人の話を聞きながら、蓮宝寺はお墓が無くて良かったと思いました。お墓が唯一の接点となれば、A君・B君のような問題がいずれ生じる可能性があります。蓮宝寺の場合、多くの信友のみなさんは多磨霊園に墓所があることがきっかけで蓮宝寺と縁を結ばれているとはいえ、私に嫌気が指したら、無理に付き合う必要はなくなります。こちらには、つなぎとめるすべがありません。これはこれで、とても怖い話ですので、なるべく考えたくはありませんが……。

それでは、蓮宝寺を成り立たせてきたのは何だったのだろうと考えますと、人と人、心と心の付き合いです。こんな財産があるでしょうか。墓地も境内も立派な伽藍もない寺ではありますが、大寺院に負けない無形の宝物があることに気付かされます。

究極のサービス業として、これからも信友のみなさまと心を通わせていきたいと肝に銘じた後輩との会話でした。

葬儀屋さんは見ている

立て続けに投稿です。(さぼっていてすみません。)
今年の2月に発行した寺報の巻頭「葬儀屋さんは見ている」を転載いたします。
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巣鴨に駿台トラベル&ホテル専門学校という専門学校があります。ホテル学科、ブライダル学科、エアライン学科、鉄道学科など学校名から想像しやすい学科が並ぶなか、葬祭マネジメント学科なる毛色の違う学科が存在します。葬儀業界に就職を目指す子たちが通うこのコースで、私はこの10年ほど、「仏教の基礎知識」を年2回、教えにいっています。

世の中は狭いもので、教え子の中に、私の妻の親友がいたのです。妻も葬儀の司会をしていましたから、何度も同じ現場で仕事をする内に仲良くなったとのこと。そこで昨年、一緒に食事をしました。

葬儀屋さんというのは、当たり前ですが、たくさんの僧侶を見ています。ピンからキリまでいろいろな僧侶と出会い、助けられたり、困らせられたり。まあ、困らせられることの方が圧倒的に多いそうで、僧侶を見る目が、とてもシビア。そこで、後学のため、いろいろ教えてもらいました。

今はお寺との付き合いが全くない方々が増え、いざお葬式になった時に、僧侶を葬儀社に紹介してもらうのが、半分くらいあるとのこと。葬儀社にとっては、菩提寺の住職が来るお葬式よりも、断然、葬儀社が紹介した僧侶が勤めるお葬式がやりやすいそうです。

どんなところがやりやすいかというと、葬儀社が困ることは一切しないからとの答え。葬儀時間をしっかり守ってくれるし、法話や戒名の説明をちゃんとやってくれて、本当にやりやすいと言います。

葬儀に遅刻をする、お経が下手だったり、戒名がひどい字で書かれていたり、人の目をまともに見ずに、何も話さない僧侶も少なくないとか。そして、そういう僧侶のほとんどが菩提寺の住職と聞いて、驚き、唖然としてしまいました。菩提寺の住職こそ、檀家さんに寄り添ったお葬式を勤め、お話をするものだと思っていました。悲しみのただ中にいらっしゃる檀家さんに、余計な心労をかけず、できるだけ、心を落ち着けて、亡き人とお別れをしてほしいと心がけているつもりの私は、「自分もそうなっているのかな?」と冷や汗。

「菩提寺の住職ってそんなにやりにくいんだ?」と聞くと、「そうですね」と彼女も苦笑い。

お清めの席で住職の周りに誰も座らず、親族同士が「お前、行けよ」、「あなたが座りなさいよ」と押し付け合っているなか、一人さびしくお寿司をつまむ住職を見ていると、「本当にかわいそうで、せつなくなった」とは私の妻。私もそんなほろ苦い経験がないわけではなく、動揺を隠すのに必死です。

では、「菩提寺の住職で良かったことは?」と一縷の望みをかけて聞いてみると、

「住職と喪主さんが親しそうに会話をしていると、この葬儀はうまく行くって思いますね。」

やはり、日ごろからのお付き合いが何より大事なんだなと痛感する言葉です。

さて、今の私は大丈夫でしょうか?

一人でお寿司をつままない住職になれるよう、もっと精進せねばと気を引き締めた教え子との再会でした。

一枚のハガキ

昨年暮れに発行した寺報「信友」の巻頭分のアップが遅くなってしまいました。
かなり時期がずれた内容になってしまっていますこと、あらかじめお詫びいたします。
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浄土宗東京教区にはホームページがあります。教区とは、分かりやすく言えば、東京都内にある浄土宗寺院を束ねる行政組織、都民に対する都庁みたいなもの。(といっても、職員は片手ほどの数で、事務所はほぼ一部屋のサイズですが)

そこには「今月の法話」というページがあり、都内の僧侶が月替わりで短いお話を書いています。私のところにも依頼が来まして、今年の三月に掲載されました。実は、私、依頼されるまでホームページの存在自体を知りませんでした。おそらく、信友のどなたもご覧になったことがないと思いますので、ここに転載させていただきます。

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一人飯で仏教レッスン 

私の寺は境内もなく、お堂らしいお堂もなく、鐘楼もありません。知らない人はお寺と分からずに通り過ぎてしまうくらいの建物です。ですから、除夜の鐘で賑わうことはなく、初詣に来られる人も数軒の檀家さんのみ。毎年、年末年始は、同業者には申し訳ないくらいにのんびり過ごさせてもらっています。

今年の正月ものんびりとしたもの。昨年中に終えられなかった仕事は山積みではあるものの、正月気分というやつで、テレビを見ながらごろ寝をしていました。私が観ていたのは、「孤独のグルメ」という番組の総集編。七時間くらいでしょうか、まとめて一気に放送をしていました。

人気番組ですので、ご存知の方も多いとは思いますが、どういう番組かご説明しますと、主人公は松重豊さん扮する井之頭五郎という独身男性。個人で貿易会社を営んでいる五郎さん、商談等で見知らぬ町にでかけ、一人、美味しいランチを食べるのが大の楽しみ。三〇分番組の半分は五郎さんがただご飯を食べています。一緒に食べる人はいません。いつも一人。そして、五郎さんの心の声がナレーションとなります。「うん、うまい肉だ。いかにも肉って肉だ」「ちょっと早いが腹もペコちゃんだし、飯にするか。」「いいぞいいぞ、ニンニクいいぞ」などなど。

なぜ、私が見入ってしまったのか。もちろんドラマとして面白いというのは大きな理由です。ただ、見ているうちに、こう気付いたのです。

「これは仏教だ!」

五郎さんは、ご飯を食べながら、テレビを観ません。新聞も広げません。携帯電話もいじりません。ただただ、ご飯を食べています。次の予定を考えることもしませんし、さっきの商談を振り返ることも一切しません。ただただ、目の前のご飯のことだけを考えています。いわば、ご飯と向き合い、集中して食べているのです。

では、皆さんはご飯を食べるとき、どうしているでしょうか。テレビに気を取られていないでしょうか。携帯ニュースに目が行ったり、LINEのやり取りに夢中になったりしてはいないでしょうか。ご飯の一品一品、自分の一噛み一噛み、そこから伝わってくる味わいに、しっかり思いをいたしているでしょうか。

仏教では「即今・当処・自己」という言葉があります。現代語にするなら「今、ここ、私」となりますが、今という時間、ここという場所に集中して、自分がなすべきことをなしなさいという意味と思ってください。ご飯を食べながらも他のことに気を取られ、食事自体がなおざりになることは、「今」「ここ」に「私」がいないということです。その点、五郎さんのランチは、まさに、「即今・当処・自己」と言えるでしょう。

私たちは食事一つとっても、なかなか、目の前のことに集中ができません。常に意識はあっちに行き、こっちに行きをしています。正月早々、五郎さんの食べっぷりに仏教の神髄を教えられた気がしました。皆さんも、一人で食事をする時には、仏教のレッスンだと思って、少し五郎さんごっこをしてみてはいかがでしょうか。

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と、まあ、ほとんどテレビの感想のような、法話ともつかない話を書かせていただきました。

誰も読む人はいないだろうと高を括っていましたら、しばらくして一通のハガキが私のもとに。送り主は「東京都 浄土宗檀信徒」とだけ書かれています。難しい法話を避けていたというその方は、「私の寺は境内もなく」の書き出しに思わず目が留まったそうです。境内がなくて良かったと思うのは、掃除の時くらいなものですが、こんなところで役立つこともあるのですね。この法話を読んで、蓮宝寺のホームページもご覧になったそうです。

若干のお褒めの言葉に続いて、こう書かれていました。

「菩提寺との関係に悩んでいます。ちまたであふれる菩提寺と檀家の行き違いのほとんどはコミュニケーション不足が原因だと思います。」

そして、最後の言葉。

「これからの浄土宗をお願い致します。」

すごいことをお願いされてしまいました。一人でも反響があったことに嬉しさを感じるとともに、この方がきっと本当に菩提寺との関係に悩んでいることがつたわってきます。私のような者に光明を見出すほどですから、よほど菩提寺の住職とうまく行っていないのでしょう。

しかし翻って、私はそんなに期待されるほど、信友のみなさんとコミュニケーションが取れているのだろうかと不安も沸いてきます。なるべくコミュニケーションを取りたいと思いますが、みなさんも個々にちょうど良い距離感、付き合い方というものがあるでしょう。どなたにでも、私がずかずかと入り込んでいって良いわけでもなく、なかなか難しいところです。

どうか、みなさまには遠慮なく、「もっと近くていいよ」とか、「これくらいでちょうど良い」とご助言いただければ幸いです。携帯メールやLINEを交換している方もいらっしゃいますし、法事と関係なく一杯やりに行くこともございます。浄土宗を背負って立つ気概は一切ございませんが、蓮宝寺住職として、信友のみなさんの老病死のお悩みを背負う気概はございます。安心して年を取っていきにくい世の中になっていますが、少しでもお役に立てるよう、来年も精進してまいります。

ちなみに、大みそかの夜にテレビ東京で「孤独のグルメ」の特番があるようです。お暇でしたら、仏教レッスンをお楽しみください。

時の過ぎゆくままに

寺報『信友』206号を檀信徒の皆さまに郵送いたしました。巻頭文「時の過ぎゆくままに」を転載いたします。
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つい先日のこと、沢田研二の50周年記念ライブに行ってまいりました。実は母がジュリーファンでして、通常、姉と二人で行っているのですが、今回は私も運転手を兼ねて同行いたしました。

父の存命中は、スーパーへの買い物以外、滅多に外出ができなかった母。父は留守番が嫌い、というよりは、母がいないと不安でしょうがない人でした。それでも、普段、自分に尽くしてくれている母に少しは申し訳ないと思っていたのでしょうか、ジュリーのライブだけは、渋々許していました。毎回、「あんなおかま野郎のどこが良いんだか」と負け惜しみ(?)を言いながら、送り出すのが常でした。

ジュリーといえば、化粧をした男性タレントの先駆けですから、昭和ひと桁生まれの父からすると「おかま野郎」だったのでしょう。私が小さい頃はまだジュリーの全盛期。私の記憶のジュリーも中性的な妖しさ・美しさが際立っていました。

さて、開演が迫ってまいります。会場は満席、ほとんどが50代以上の女性、60~70歳が最も多い年齢層のようです。ジュリーが69歳ですから、ともに人生を歩んできた同志のような感覚もあるのかもしれません。明かりが落とされ、いよいよジュリーの登場です。

スポットライトが照らされ、キラキラしたグリーンのラメ入りスーツをまとったジュリーが現れます。そこにいるジュリーは、白髪の坊主頭に白いあごひげ、顔も体形もふっくら、いや、ぶくぶくに近いもの。もはや「おかま野郎」の妖艶さのかけらもない、一人のおじさんが立っていました。しかし、ひとたび歌いだせば、往時をしのばせるどころか、全盛期よりも深みと迫力のある歌声で会場を熱狂させるのです。あちらこちらから「ジュリーッ!」と年季の入った黄色い声。78歳の母もノリノリです。

あれだけ美のシンボルとされてもてはやされたジュリーが、今、これだけ外見に無頓着でいるということは、ただの怠け者ということではないはずです。歌声を聞けば、努力を怠っていないことは明らか。外見だって努力次第でなんとかなるでしょう。若さや美を保つために、整形手術をしたり、美容に高額なお金をかけたりするのが当たり前な芸能界にいながら、それに迎合しない。テレビには積極的に出演しないけれども、毎年、ライブツアーは欠かさず、歌声を全国に届ける。歌手として必要なことだけを追い求めるジュリーには深い哲学を感じました。

余計なものは捨て、本当に必要なものだけに力を注ぐ、流行りの言葉でいえば「断捨離」でしょうか。そして、「時の過ぎゆくままに、この身をまかせ」と歌を地で行くその姿に、諸行無常のことわりを思ったのでした。

~後日談~

ジュリーのライブの2日後の朝、私が台所に行くと、母があおむけで倒れています。聞くと、目が回って起き上がれないとのこと。慌てて♯7119(救急相談センター)にかけて、事情を説明すると、すぐに救急搬送が必要と言われ、救急車にて病院に搬送されました。CTも心電図も異常はなく、担当医は耳が原因でしょうとの診断。

翌日、退院し、その足で耳鼻科にて診察と相成ります。すると、先生は「最近、寝不足とか、興奮したことありました?」と質問。ジュリーのライブに行ったと答えると、「それだよ、それ!」と大笑いです。高齢者が興奮したり、寝不足になったりすると、自律神経が乱れて、耳のリンパ液のバランスが悪くなり、めまいが起こることがあるそうで、まさに年寄りの冷や水というもの。もちろん、父の介護・葬儀、私の挙式などでの疲労の蓄積があっての今回のめまいではありますが、ファンを病院送りにしてしまう、ジュリーの未だ衰えぬスター性に脱帽です。

ただ、ライブに行ってはダメということではなく、ライブの夜はゆっくり湯舟につかり、よく寝れば良いようです。信友の皆さまも、体力と相談しながら、人生をエンジョイされますように。