サンタ菩薩がやってくる

寺報『信友』224号の巻頭「サンタ菩薩がやってくる」を転載いたします。

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今年も残すところ一か月となってまいりました。第6波が危惧されていますが、今年こそは忘年会で杯を上げたい方も多いことでしょう。私もその一人ですので、現在の状況が維持されることを願うばかりです。

さて、年末を迎えるにあたり、妻がある相談をしてきました。娘のためにクリスマスツリーを買ってもいいかと。

「えええっ?」

私の心は動揺を隠せません。なにせ、私の人生の中に、家にクリスマスツリーがあるなんていう経験がありません。祖父は、一般家庭から仏門に入った厳格な僧侶でしたので、クリスマスの「ク」の字でも聞いたら怒る人でした。ドリフターズのクリスマス特番を、テレビの音量を小さくして、ビクビクしながら姉と見ていたものです。なので、クリスマスプレゼントをもらったことも、サンタの存在を信じたこともなく育っている私。

妻も臨済宗の寺の娘なので、てっきり同じ境遇で育ったのかと思いきや、ちゃんとツリーを飾り、サンタさんに手紙を書いて、起きたら枕元にプレゼントがある幼少期だったとのこと。

「へー、お寺でもそんなことするんだ!」と驚嘆する私でしたが、夫婦の会話を聞いていた姉が、「私もそうだったよ」とさらに驚きの一言。

この姉弟の違いは、なぜ生じたのでしょう?

姉が生まれた当時、両親は日野市に居を構えて、祖父と離れた生活をしていました。そこでは一般家庭と同じく、クリスマスが存在していました。姉が四歳の時、私が生まれる直前に寺での祖父母との同居、つまりクリスマスが存在しない生活が始まります。

クリスマスの味を知ってしまっていた姉は、本棚の中に小さいクリスマスツリーを飾り、布でカーテンを作り、ツリーを隠していました。不憫に思った両親も、プレゼントをあげていたみたいです。姉曰く、それはまるで「隠れキリシタン」だったとか。

私自身は、クリスマスがある家庭をうらやましいと思ったこともないですし、疎外感を持ったこともありません。娘にクリスマスはマヤカシだよと教え育ててもいいかなと思っていましたが、「そんなのかわいそう」と断固反対の妻と姉。クリスマスの味を知っている二人からすると、知らない私は「かわいそう」なようです。(姉は、途中で方針転換をされる方が、もっとかわいそうと言っていますが。)

まあ、もはやキリスト教徒以外には、宗教色のほとんどない年中行事となっているクリスマスに、祖父のように目くじらを立てることもないなと思います。妻と姉のように楽しい思い出として語れるのなら、娘にクリスマスを味わってもらうのも悪くありません。

ある僧侶の友人が、「サンタさんは世界中の子供たちを笑顔にするために汗を流す菩薩さまなんですよ」と言っていたことを思い出します。人々の苦を取り除き、楽を与えるのが菩薩さま。たしかに、サンタさんはサンタ菩薩と言っても良いかもしれませんね。

コロナで我慢を強いられた子供たちに、今年もサンタ菩薩が笑顔を届けてくれることを願いつつ、わが家も初のクリスマスツリーを迎えることになりそうです。