亡き人のために骨を折る

寺報『信友』229号の巻頭「亡き人のために骨を折る」を転載いたします。
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早いもので2月5日に母の一周忌を迎えました。十分に見送れたという実感があるおかげなのか、二児の育児に追われているだけなのかは分かりませんが、この一年、悲しさや喪失感に襲われることなく、母の話題はだいたい笑い話。ありがたいことです。

一周忌法要は親しい僧侶三人に勤めてもらい、参列はごく身内と総代さんのみのこじんまりしたもの。とはいえ、当日を迎えるまで、返礼品や会食会場の手配、御礼の額に頭を悩ませ、当日は当日でてんやわんやの忙しさ。

信友のみなさんも、親族との日程調整や諸々の手配で骨を折られて、法要にお越しになられるのだと再認識しました。

コロナもあり、近年は法要の簡素化、簡略化が進んでいると言われますが、一方で「死者の復権」なんていう言葉もあるのだとか。

私たちは生きている人の都合を優先して、亡き人の悼まれる権利を侵害しているのではないかという議論のようです。「権利」なんて聞くと、小難しそうですが、たしかに、昔に比べると、亡き人よりも生きている人の都合を優先するようになっているのかもしれません。

かつては、家族が亡くなれば、自宅で安置。家を留守にはできません。忌引きをとって、遺体の番をします。通夜は夜通し故人のそばで過ごし、葬儀が終わっても、四十九日まで七日ごとに自宅で法要をつとめていました。息を引き取ってから、少なくとも四十九日まで、家族は故人を中心とした時間を過ごしていたんですね。

それに比べて今の葬儀全般を見ると、生きている人の都合が優先され、故人はないがしろにされているという指摘もあながち間違っていないように思えます。

ただ、そうせざるをえないのが今の社会なんですよね。この世にいない人のために、時間を割かせてもらえない。できることなら、遺体と一緒に過ごして、ゆっくり思い出話に花を咲かせたいけれど、時間がない。火葬場が混み過ぎて忌引きが足りない現実もあります。

昨年、母が亡くなってから葬儀までの10日間を弔問期間としました。葬儀社さんからは、「10日間もずっと来客の対応をしなければならないですよ」と心配されました。たしかに、何時に弔問にお見えになるか分からないですし、臨終までの経緯を何十回も話しましたから、疲れはしました。ただ、嫌な疲れではなく、むしろ贅沢な時間を過ごせたなと思っています。

10日間は、まさに母を中心にした生活でした。そのおかげで、遺体との別れも穏やかにできました。この一年、穏やかに過ごせたことの一因かもしれません。寺の人間だからこんなことができたと思います。大学が休みに入っていたことも幸いでした。

法事や葬儀というのは、準備段階も含めて故人を中心とした時間です。自ずと亡き人とのつながりを感じ、亡き人と出会う時間でもあります。みなさんが、お仏壇やお墓に手を合わせる時間がまさにそうですよね。

母の一周忌を経て、みなさまにも亡き人との時間を大切にしていただきたいとあらためて思います。そして、こんなご時世でも、ご葬儀、ご法要をしっかりつとめようと骨を折ってくださる、そのお気持ちに応えられる儀式をしなければと改めて気を引き締める次第です。