三つの言葉

今月に発行した寺報『信友』の巻頭「三つの言葉」を転載いたします。
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春のお彼岸でもお話したように、二月に大学の仕事で台湾に行ってまいりました。

台湾では、終末期の患者さんの病床に、訓練を受けた僧侶が出向き、患者やその家族の不安や悩みを聞いたり、死後の世界について話したりすることが普通に行われていて、その視察が主目的。日本の東京大学医学部に相当する台湾大学医学部や附属病院、訪問看護ステーションならぬ訪問僧侶ステーションといった雰囲気の寺院など、いろいろな施設を尋ね、医師や僧侶に話を聞いてきました。

学ぶことの多い旅ではありましたが、一番印象に残ったのは、「善終」という考え方。簡単にいえば、「良い死に方」です。これは死ぬ人と見送る人(家族)、双方が満足するものでないといけないようで、台湾人は「善終」に強い理想を持っているとのこと。では、どうしたら「善終」を達成できるのでしょう。

ある医師は、「医者と看護師は体のケア、心理士とボランティアは心のケア、僧侶は善終のケア。やることは分かれてます」と言います。「善終」は、僧侶が担うのです。

「善終」のためには時間をかけて、丁寧に患者とその家族に寄り添う必要があるのですが、患者と家族、双方にわだかまりがあるなら、それを解消することがとても肝要だそうです。もちろん、その仲介を担うのも僧侶です。

たとえば「家族を大事にしないお父ちゃんで悪かった」と詫びたいけれど、照れくさいと聞けば、家族の気持ちを尋ね、解きほぐして、和解に導くのが僧侶の役目。こんな家族の歴史的瞬間に何度も立ち会ってきた僧侶は、「善終」に大切な三つの言葉を教えてくれました。

「ごめんなさい」

「ありがとう」

「愛している」

我が身におきかえて考えれば、たしかに、胸のつかえを無くして、感謝を伝えて旅立ちたいし、見送りたいものです。

しかし、照れくささや気まずさでなかなか口に出せないのも現実。かく言う私も、臨終が迫った父に、三つのうちの一つもかけることはできませんでした。死を間近にしていても、私たちはそう簡単に正直にはなれないのかもしれません。

とはいえ、老少不定、いつ死ぬかなんて年の順とは限りませんし、朝に元気でも、夕には死ぬかもしれないのが私たち。死は常にすぐ鼻の先にあると思って、なるべく素直に、気持ちを伝え合いたいものですね。