「お寺でヨガ」の予定は、
3月12日10時半~
4月9日10時半~
5月21日10時半~
6月18日10時半~
7月16日10時半~
8月13日10時半~
となっております。
ヨガの先生・村瀬松子さんのHPからお申込みいただけます。
「お寺でヨガ」の予定は、
3月12日10時半~
4月9日10時半~
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7月16日10時半~
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寺報『信友』237号の巻頭「暗闇と救いの手」を転載いたします。
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先日あるホテルに泊まった時のことです。
その日は深夜1時から5時まで全館停電のため、料金が安くなるというので、「そりゃ良いや」と思っていました。エレベーターも非常灯も冷蔵庫も全て止まるそうですが、1時から5時まで寝てしまえばいいわけですから。
しかし、そういう時に限って、夜中に目が覚めてしまうんですよね。カーテンを閉め切っていたため、月明かりすら入らず、真っ暗闇。ベッドから降りると、自分がどっちに向かって立っているかも分かりません。目をつぶったり、目隠しをしたりした時の暗闇とは全く違う感覚でした。全く光の無い世界、暗闇に包まれたような感覚です。
仏教では迷いの世界を暗闇の世界と言ったり、私たちの煩悩の源は無明(真理を知らない、つまり明かりが存在しない暗闇)と呼んだり、暗闇をよく使います。一方で、智慧を光で表現したり、阿弥陀如来はその光明で暗夜を照らし、私たちを救ってくださると説きます。暗闇(煩悩、迷い)と光明(悟り、救い)を対比するのです。
私もこうした表現をついつい使ってしまうのですが、ホテルで闇に包まれながら、いやはや真の暗闇とは恐ろしいものだなあぁと感じました。5時になれば明かりがつくと分かっているから良いものの、これが永遠だったらどれほど不安でしょうか。電気の無い古代インドの人たちは、きっとこうした暗闇の不安を体感的に理解し、だからこそ、仏様の智慧や救いを光にたとえたのだと実感しました。
蓮宝寺のお檀家さんに人生半ばで視力を失われた男性がいらっしゃいます。お参りに来られるときはいつも奥さまが寄り添い、親身にお世話をされています。
ある時、私が「奥さまがお優しくて、何よりですね」と声をかけると、そのご主人は、「本当に私にとっては観音様です、ありがたいことです」と感謝を述べられました。
暗闇の中でこのやり取りを思い出した私は、このご主人の言葉は誇張でもなんでもなく、心の底からの言葉だったのだとあらためて感銘を受けました。自分がどこにいるのか、目の前に何があるのか分からない世界で、奥さまは迷える者に救いの手をさしのべる観音様にほかなりません。
私はその奥さまのように信友のみなさまの観音様には到底なれません。せめて、仏さまの教えが、少しでもみなさの暗闇(不安)を照らす光となるよう、お伝えしていければと気を引き締めた夜でした。
ちなみに再び眠りについたのですが、5時に全ての電気がついてしまい、大慌てで電気を消してしまいました。過ぎたるは猶及ばざるが如し。程よい光明がよろしいようです。
寺報『信友』236号の巻頭「塵を払い、垢を除かん」を転載いたします。
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11月とはいえ、20度を超える日もあり、先日は多磨霊園での読経中に蚊に刺されてしまいました。一方で、多磨霊園の木々の落ち葉が毎日のように駐車場に降り積もります。本当に秋がなくなり、夏と冬が隣り合っているようで、温暖化を実感させられます。
延々と舞い落ちる枯葉を見ていると、お釈迦さまの一人のお弟子さんが思い浮かびます。それは、周利槃特(しゅりはんどく)というお弟子さん。
周利槃特は兄の摩訶槃特(まかはんどく)に勧められてお釈迦さまに弟子入りしました。兄ははとても頭がよく、お釈迦さまの教えをすぐに理解できたのですが、周利槃特は物覚えが悪く、時々自分の名前を忘れてしまうほど。お釈迦さまの教えを覚えることなど到底できません。
修行仲間にからかわれ、兄にも厳しく咤され、泣いているところにお釈迦さまが現れ「なぜそんなになげいているのか?」と問いかけました。
周利槃特は「自分は愚かで何も覚えられない。もう修行をやめたい。どうしてこんなに愚かに生まれてしまったのか」と吐露します。
お釈迦さまは「悲しむことはない。自分の愚かさを知っている者は愚かではない。自分が賢いと思っている者が愚かなのだ」と励まし、一本の箒(ほうき)と「塵(ちり)を払い、垢(あか)を除かん」という一句を周利槃特に与えました。
それ以来、周利槃特は来る日も来る日も「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら、箒で掃除をし続けました。最初はバカにしていた修行仲間たちも、次第に尊敬の念を抱くように。お釈迦さまも「上達することも大事だが、努力を続けることはもっと大事だ」と周利槃特の姿勢をほめられたそうです。
掃除をし続けること20年、周利槃特はついに悟りました。掃除をしても、すぐに汚れやほこりが生じます。だからこそ掃除し続けることが大事。これは人間の心も同じこと。次から次へと沸き起こる執着や欲望は、いわば心の塵や垢。常に自分の心を見つめて、掃き清める努力が必要なのですね。
さて、我が身を振り返ると、一本の箒ではなく、電動ブロワーを使うというていたらく……。悟りには程遠いようです。
みなさまも年末の大掃除には、「塵を払い、垢を除かん」とお唱えしてみてはいかがでしょうか。
ちなみに、「天才バカボン」のレレレのおじさん、周利槃特がモデルだそうです。
【追記】謎の赤い実
駐車場の落ち葉を掃いていたら、落ち葉の下から何やら大量の赤い木の実が出てきました。形状からするとハナミズキの実のようです。
風に飛ばされて自然とこんなに集まるはずもありません。動物好きの姉の推測では、ネズミのしわざではないかということです。貯食行動といって、食料を集めて隠しておくのだとか。
ここは全然掃除していないから、隠すのにちょうど良いと思われたのでしょうか……。
寺報『信友』235号の巻頭「次のオリンピック」を転載いたします。
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パリオリンピックが閉幕しました。テレビが一家に一台だった頃に比べると、家族でオリンピックに熱狂する時代ではなくなってしまいましたが、それでも数々の感動の場面がありましたね(虎党の私はタイガースの戦績に一喜一憂の夏でしたが……)。
4年後はロサンゼルスと聞いて、1984年(昭和59年)のロス五輪を思い出しました。私の記憶の一番古いオリンピックがそれなのです。
私は当時7歳でした。体操の森末・具志堅、柔道の斉藤・山下の金メダル、カール・ルイスの四冠は鮮明に覚えています。そして、もう一つロス五輪で忘れられない光景があります。
おじいちゃん子だった私は、祖父と一緒にテレビで閉会式を見ていました。「4年後はソウル……」というアナウンスを聞きながら、祖父は「おじいちゃん、次のオリンピックは見られないかもしれないなあ」とつぶやいたのです。
私にはまだその言葉の意味が分りませんでした。でも、弱いところを見せることなどなかった明治生まれの祖父が、珍しく寂しそうにしていたので、記憶に焼き付いているのでしょう。
祖父は頑強な人でした。翌年の4月末、私と一緒に入浴中に心臓の痛みを訴え出し、翌朝、着物に着替えて、自分で救急車を呼んで、自分の足で乗り込んで病院に向かいました。診断は心筋梗塞。すぐに危篤状態となりました。
余命数日といわれましたが、11日間がんばって、5月8日に浄土に旅立ちました。
家族も檀家さんも「何の前触れもなく逝ってしまった」と言いました。
当時の男性の平均寿命は74歳、祖父は80歳でしたから、死がいつ来てもおかしくはありません。でも、今、ロス五輪のことを思い返すと、それだけはない何かを祖父は感じていたように思うのです。あの一瞬の寂し気な顔は、一年も経たずに旅立つ自分を予期していたのかも……と。
オリンピックの4年という間隔は、恐ろしくも思えてきます。私の父はロンドン五輪、母は東京五輪が最後のオリンピックでした。慢性腎不全だった父、悪性リンパ腫だった母にとって、「次のオリンピック」はどんな響きを持つ言葉だったのだろう。
誰だって4年後にロス五輪を見られる保障はありません。それでも、4年の持つ重みは人それぞれ。病気の人、健康な人、若い人、老いた人、「あと4年」を簡単だと思う人もいれば、ハードルが高いと感じる人もいるでしょう。
みなさまが、4年後、「またオリンピックを見られた」という日を迎えられますように。住職としてご本尊に願っております
寺報『信友』234号の巻頭「比べなくてもあなたはあなた」を転載いたします。
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毎年、年末にお送りしております浄土宗月訓カレンダー。5月の月訓は、標題の「比べなくてもあなたはあなた」でした。
浄土宗では『浄土宗新聞』という月刊新聞を出しておりまして、「今月のことば」というコラム欄があります。カレンダーの月訓にちなんだコラムが掲載されるのですが、そのお鉢が私にまわってきました。二十部ほど掲載紙が送られてきましたので、寺に置いております。お参りの際、ご自由にお持ちください。とはいえ、なかなか皆さんがお手に取るチャンスはないのも現実ですので、ここに転載いたします。
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新緑が目に鮮やかな季節になりました。私はスギの花粉症なので、久々に新鮮な空気を思い切り吸い込めてうれしい毎日です。お檀家さんに会えば、「良い季節になりましたね」とあいさつを交わしています。
しかし、ふと考えてしまいます。本当に良い季節なのかしら、と。私にとっては良い季節でも、イネの花粉症の方にとってはピークを迎える悪い季節かもしれません。「良い」も「悪い」も人それぞれに異なるもの。「季節」はただ「季節」に過ぎず、私たちが勝手に個人的評価をつけているだけなのかもしれません。
私たち自身も勝手な評価をお互いにつけ合い、時にそれに苦しんでいると感じることが多々あります。職業柄、悩みの相談を受ける機会がありますが、そこで気づくのは評価されたり、比べられたりすることに疲れている方々がたくさんいるということ。この世界は小さいころから、成績という評価軸で他人と比べられる競争社会です。例えば95点をとっても、親からはほめてもらえずに、「なんでこの5点ができないんだ!」と叱られていたなんてお話をうかがったことがあります。その親にとっては「95点を取ったがんばった」子ではなく、「あと5点を取れなかった残念な」子になってしまい、本人もご自分をそう思うようになってしまったのだそうです。
家庭や学校では「良い子」や「普通の子」であることを求められ、ちょっと外れてしまうと「ダメな奴」「変な子」というレッテルを貼られてしまう。大人になっても同様で、いつまでも他者からの評価を気にする社会に生きなければなりません。疲れてしまうのも自然なことです。
浄土宗が拠り所とする経典『阿弥陀経』に、「青色青光(しょうしきしょうこう) 黄色黄光(おうしきおうこう) 赤色赤光(しゃくしきしゃっこう) 白色白光(びゃくしきびゃっこう)」という一節があります。これは極楽浄土では青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を放つという描写で、それぞれの花がそれぞれの光で輝く、その良さを示したものです。
阿弥陀さまの世界は、評価されることも比べられることもなく、みんながそのままでいて良い世界。現代社会はなかなかそうはいきませんが、阿弥陀さまはいつも、「あなたはあなたのままでいいんだよ」と語りかけてくれています。
——
いつも、信友では、あまり仏教的なことを書いていないので、お坊さんらしさを感じていただけたでしょうか?(笑)
街はアジサイが咲きだしてきました。青や紫、赤、いろいろな色で咲き誇り、うっとうしい梅雨時期の一服の清涼剤ですね。どんな色もきれいだなと阿弥陀さまの心で楽しみましょう。
寺報『信友』233号の巻頭「思わぬ効能」を転載いたします。
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1月1日に発生した能登半島の地震・津波は、正月気分を一気に吹き飛ばしました。信友のみなさんのなかにも、能登に親戚や友人がいらっしゃる方もおられるでしょう。心よりお見舞いを申し上げます。
震災のニュースに触れると、どうしても2011年の東日本大震災を思い出してしまいます。テレビや携帯電話から地震のアラームが鳴るやいなや、瞬時にして、あの時に戻されるような感覚。みなさんもおありではないでしょうか。それだけ私たちの心に深い痛みとして残っているのでしょう。
当時は連日のように死者が何名、行方不明が何名といったニュースが流れ、テレビ画面には嘆き悲しむ被災者が映し出されていました。そして、被災者のほとんどは、近しい誰かを亡くした遺族でもありました。
大震災の発生から少し経った頃、ある女性のお話をうかがう機会がありました。その方は、若い頃にご両親を自死で失うという悲痛な経験をされ、今は同じような経験をされた人たちを支える活動をしています。
テレビもラジオも新聞も震災報道一色だった頃、どう過ごしていたのかという話になりました。地震・津波でたくさんの人が亡くなったという報道は、被災地から遠く離れた場所にいても、遺族には無関係ではなく、胸がかき乱されるもの。自分が家族を亡くした時の記憶がよみがえったり、蓋をしていた感情が爆発しそうになったり……。
「ニュースは一切見れませんでした。でも、テレビやラジオをつけないと、孤独に押しつぶされそうになる。被害はだいたい分かっているから、ニュースを見なくても、いろいろ考えてしまって、落ち込んでしまうし……。」
では、どうやって乗り切ったのかと聞くと、こんな答えが待っていました。
「通販チャンネルってあるでしょう。24時間、365日、生放送で通販をしているところ。あれをずっとつけていたんです。震災のニュースはやらないし、暗い社会と無縁の世界。生放送だから、なんとなく同じ時間を過ごしている気分で、孤独感も和らぎました。」
全く想定外の答えに、目からうろこ。苦しさのなかで、もがき、たどり着いた逃げ道が、通販チャンネルだったのです。
たしかに、よく見ていると、通販チャンネルの人たちは、いつも明るく、前向きなことしか言いません。「赤のMサイズ、売りきれました!」とライブ感が伝わり、今、同じ時間を生きているんだ、自分は一人ぼっちじゃないんだと思わせてくます。
それ以来、私も孤独を感じたり、気持ちが上向かなかったりしたとき、通販チャンネルをボーッと眺めます。どんな夜中でもいつも笑顔で、フライパンで肉を焼いたり、スカートを履いたり、楽しそうです。(何も買ったことはありませんが)
これって、実はとても大事なことなのです。自分の心を知り、ダメだと感じた時にはしっかり守るということ。震災報道に疲れてしまった時に限りません。寂しさやしんどさにおそわれたら、だまされたと思って、通販チャンネルをつけてみてくださいね。
寺報『信友』232号の巻頭「怨みをすててこそ」を転載いたします。
―――――
今年も残りわずかとなりました。
一昨年の年末の信友には、「世界全体では、楽より苦が多かったように感じます。来年は苦よりも楽が多い一年になりますように」と書き、昨年の年末には、「去年より今年の方が『楽より苦』が多かったのではないでしょうか。来年こそは、笑顔あふれる一年になりますように」と書いていました。
さて、今年一年を振り返るとどうでしょう?
コロナはある程度おさまり、日常が戻ってきました。虎党の私としては、阪神タイガースの優勝に心躍らせたのですが、社会全体、世界全体を見ると、やはり今年もなんだかどんよりとした一年だったように感じます。
特に戦争の報道は胸がふさがれますね。ロシア・ウクライナだけでなく、今年はイスラエルとパレスチナ(ハマス)との戦闘が起こりました。私自身、ここ数年で母の看取りや子どもの誕生を経験したばかりなので、病院で患者や新生児が犠牲になるニュースは胸が張り裂けるようです。
亡くなられた人だけでなく、懸命に看病していた家族、赤ちゃんをお腹の中で大事に大事に育ててきたお母さん……、みんな、どんな思いでいるのでしょう。もし私が同じ立場なら、狂ってしまった方がどんなに楽かと思うかもしれません。かたき討ちをせずにはいられないと銃を取るかもしれません。
そんなことを考えるとき、お釈迦様の言葉が浮かんできます。
実にこの世においては、
怨みに報いるに怨みを以てしたならば、
ついに怨みの息(や)むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。
(『ダンマ・パダ』より)
怨みへの報復は、さらに怨みを生み出し、そのサイクルは止まることはない。怨みを捨ててこそ、怨みの連鎖は終わるのだと説かれています。世界の紛争だけでなく、私たちの身の回りをみても、その通りだと思う言葉ですね。
お釈迦様がこの言葉を残して2500年が経っていますが、悲しいことに、世界中で怨みはやんでいません。人間は怨みを簡単には捨てられないのだということを分かったうえで、お釈迦様は諭されたのでしょう。やはり、私ももしそんな目にあったなら、怨みを捨てられるのかどうか、はなはだ自信がありません。
実は、浄土宗の開祖・法然上人は、幼少期に押領使(地方行政職)だった父親を敵対する豪族に殺害されています。父親は臨終の間際に、かたき討ちはせず仏門に入って父の菩提を弔うようにと我が子(法然上人)に言い残したと伝えられます。
法然上人が残した浄土の教えとは、この世は苦しみに満ちているけれど、阿弥陀様の極楽浄土は苦しみも怨みも悲しみも一切ない世界。どんなに弱い愚かな人間でも阿弥陀様に救われて、極楽浄土に往けるというもの。
法然上人の生い立ちを考えると、浄土宗の教えは、法然上人が抱えていた怨み、人間の弱さを直視し、血がにじむような修行の末に出会われた法然上人ご自身の救いだったのではないかと思えてきます。
もちろん、極楽浄土があるからこの世で怨みを捨てなくても良いというわけではありません。少しでもこの世界で怨みの連鎖が断ち切られますよう、私自身も自戒したいと思います。
来年こそは苦よりも楽が多くなりますよう、心から願います。
寺報『信友』231号の巻頭「黙祷の思い出」を転載いたします。
―――――
猛暑だったり、台風が来たりと、ちょうどいい天気がない夏ですね。みなさん、体調崩されていないでしょうか。
今年は戦後78年、8月15日は78回目の終戦記念日でした。大学院時代、戦前の政治と宗教の研究をしていたこともあり、毎年8月15日には、靖国神社に(参拝ではなく)観察に行っていたのですが、小泉首相や安倍首相が公式参拝しだしたあたりから、静かに追悼する場ではなく、騒々しいキナ臭い場に変わってしまい、行く気が失せてしまった私。いつしか、8月15日は特別な一日ではなく、三百六十五分の一日に変わっていました。
そんなことを思いながら、今年の終戦の日のニュースを見ていて、ふと思ったことがありました。
「我が家はいつから黙祷しなくなったんだろう?」
私が小さい頃の我が家は、8月15日の正午になると、テレビの甲子園中継をつけながら、高校球児とともに、黙祷していたものです。物心ついた頃にはそうするのが当たり前と思っていましたし、おぼろげな記憶では大学生くらいまでは、家族そろって黙祷していました。
黙祷の後には、だいたいこんな話がくりひろげられたものです。
明治39年生まれの祖母は、当時住んでいた浅草の寺が空襲で焼けてしまい、ご本尊をおぶって逃げたこと。
昭和3年生まれの父は、空襲のあとに墨田川の死屍累々をみたこと。神宮外苑の学徒動員の出陣式を見に行ったこと。あと一年戦争が長引いていたら、自分も招集されていたこと。青山墓地でデートをしていたら憲兵に見つかって追いかけられたこと。
昭和13年生まれの母は、近所の神社で出征兵士を見送って、万歳三唱をしたこと。両親の郷里・長野に一家で疎開したこと。空襲・戦災のどさくさに紛れて自宅を奪われないように祖父だけが人形町にとどまったこと。疎開先で澄み渡る青空のもと、みんながラジオの前に呼び出され、玉音放送を聞かされたこと。内容は分からなかったが、大人たちが泣いていたこと。
みんな、このように戦争を体験し、記憶に刻まれているからこそ、終戦の日に黙祷をすることは当たり前だったのでしょう。
今思うと、これは私にとって、間接的な戦争体験だったのかもしれません。戦争を経験していないけれど、直接体験した家族の話から、戦争は嫌だという感覚はしっかり植え付けられたと思います。
しかし、祖母も父も母もこの世を去り、私もいつしか黙祷をしなくなっていました。
昨年末、「徹子の部屋」にタモリさんがゲストに出た際、黒柳徹子さんに「2023年はどんな年になると思います?」と聞かれ、「新しい戦前になるんじゃないでしょうか」と答え、話題になりました。
もう戦争をハッキリ記憶している人は80代半ばになろうとしています。家族からあれだけ戦争体験を聞かされた私も、黙祷を失念してしまっています。そんなことでは、我が子に戦争は嫌だと伝えるのは心もとない。
ロシアのウクライナ侵攻では、双方に10万人ともいわれる死者が出ているのだとか。10万はたんなる数字ではありません。一人ひとりの人生があり、嘆き悲しむ家族がいるはずです。それなのに、テレビではゲームのようにロシアやウクライナの映像を流して、ドローンだミサイルだと解説をしています。私たちもどこか他人事のようです。
戦争の悲惨さを忘れてしまえば、「新しい戦前」はすぐそこにやってくるでしょう。ごく身近に戦争の苦しさを伝えてくれる家族がいたありがたさを、あらためてかみしめ、戦争は嫌だということを、子供たちに伝えていきたいと思った夏でした。
寺報『信友』230号の巻頭「キサーゴータミーのお話」を転載いたします。
―――――
お釈迦様の説話は数えきれないほどありますが、キサーゴータミーのお話はご存じの方も多いかと思います。
キサーゴータミーというのはあるお母さんの名前です。やっと歩けるくらいになった男の子がいたのですが、病で亡くなってしまいました。2500年も昔のインドですから、幼くして亡くなる子どもも多かったことでしょう。
キサーゴータミーは我が子の死を受け入れられず、道行く人々に「この子の病を治す薬を知りませんか?目を覚まさせるお薬はありませんか?」とすがります。死んだ子を生き返らせる薬などあるはずもないので、みんな、困り果てるばかり。ある人が、「お釈迦様のところにいけば、お薬を出してもらえるかもしれない」とキサーゴータミーに教えてあげました。
キサーゴータミーは我が子を抱えて、お釈迦様のもとに。「どうかこの子を治すお薬をください」と懇願するキサーゴータミーに、お釈迦様は「よろしい。それでは、町に行って芥子の実をもらってきなさい」。「そんな簡単なことでよいのですか?」と尋ねるキサーゴータミーに、「ただし、今まで誰も死んだ者のいない家からもらって来なければいけません」とお釈迦様は伝えました。
一目散に町に向かったキサーゴータミー。一軒一軒、「この家では誰も亡くなっていないでしょうか?」と尋ねます。
「うちは十年前におじいさんを亡くしたよ」
「去年、母を亡くしたばかりだ」
「先日、うちも子ども亡くしたんだ」
「あなたの気持ちは分かるが、世の中、生きている人より死んだ人の方がはるかに多いんだよ」
どの家にも死んだ人がいます。それでも、諦めきれないキサーゴータミーは必死に歩き回ります。しかし、一向に芥子の実は手に入りません。ついに気力も体力も尽きたキサーゴータミ―は、冷たくなった我が子を抱いてお釈迦様のもとに帰ります。
「芥子の実は得られたか?」と問うお釈迦様に、「死者を出していない家など一軒もありませんでした。人は皆、必ず死ぬことが分かりました。我が子が死んだことにようやく気が付きました」と泣き崩れるキサーゴータミー。
そして、キサーゴータミーはお釈迦様の弟子となり、生死を超える道を目指したのだそうです。
どうしてキサーゴータミーは我が子の死を受け入れられたのでしょう?一般的には、キサーゴータミーは「人は必ず死ぬ」という真理を知ったからだ、お釈迦様はその真理を分からせるために芥子の実を死者を出したことのない家からもらうように命じたのだと解釈されます。
仏教の原理からいえば、その解釈はたしかに妥当なんですが、私はちょっと違う見方をしています。
キサーゴータミーは何度も「我が子が目を覚まさない、冷たくなってしまった」と話したことでしょう。そして、町の人々はその子が生き返らないことを察しながら、「それはつらいことですね」と言葉をかけてくれたでしょう。
「去年、母を亡くしたばかりだ。まだ寂しいよ」
「うちも子どもを亡くしたんだ。それはそれは悲しかった」
そんな会話もあったかもしれません。
キサーゴータミーも、「人は必ず死ぬ」ということくらいは知っていたはず。でも、まさか我が子がこんなに早く旅立つとは思ってもいず、頭と心がバラバラに、ぐちゃぐちゃになってしまったのではと推察します。
キサーゴータミーは、たくさんの人に心情を吐露し、そして言葉をかけられ、相手の経験も聞くなかで、次第に我が子の死を受け入れられる心の状態になったのではと私は思うのです。それは、昨年、母が亡くなった時、多くの信友のみなさまにご弔問いただき、話し、話されるなかで私自身が癒された経験からも、強く思うことです。
今回の施餓鬼法要では、いつもと趣向を変えまして、前半が私の法話、後半にゲストにお話いただくことにいたしました。
お招きするゲストの神藤有子さんは、府中市内で訪問看護師として勤務するかたわら、遺族の集い「つきあかり」の主催者でもあります。大切な人を亡くした方々が、安心して寂しさ、悲しさを話せる場所を提供されています。それは、いわば、現代におけるキサーゴータミーの救いの場所かもしれません。
私たちは誰もが愛する人を失い、必ず遺族になります。在宅医療や遺族の集いの現場から神藤さんが気づいたこと、学ばれたことを教えていただき、私たちの生きる智慧としたいと思います。
寺報『信友』229号の巻頭「亡き人のために骨を折る」を転載いたします。
―――――
早いもので2月5日に母の一周忌を迎えました。十分に見送れたという実感があるおかげなのか、二児の育児に追われているだけなのかは分かりませんが、この一年、悲しさや喪失感に襲われることなく、母の話題はだいたい笑い話。ありがたいことです。
一周忌法要は親しい僧侶三人に勤めてもらい、参列はごく身内と総代さんのみのこじんまりしたもの。とはいえ、当日を迎えるまで、返礼品や会食会場の手配、御礼の額に頭を悩ませ、当日は当日でてんやわんやの忙しさ。
信友のみなさんも、親族との日程調整や諸々の手配で骨を折られて、法要にお越しになられるのだと再認識しました。
コロナもあり、近年は法要の簡素化、簡略化が進んでいると言われますが、一方で「死者の復権」なんていう言葉もあるのだとか。
私たちは生きている人の都合を優先して、亡き人の悼まれる権利を侵害しているのではないかという議論のようです。「権利」なんて聞くと、小難しそうですが、たしかに、昔に比べると、亡き人よりも生きている人の都合を優先するようになっているのかもしれません。
かつては、家族が亡くなれば、自宅で安置。家を留守にはできません。忌引きをとって、遺体の番をします。通夜は夜通し故人のそばで過ごし、葬儀が終わっても、四十九日まで七日ごとに自宅で法要をつとめていました。息を引き取ってから、少なくとも四十九日まで、家族は故人を中心とした時間を過ごしていたんですね。
それに比べて今の葬儀全般を見ると、生きている人の都合が優先され、故人はないがしろにされているという指摘もあながち間違っていないように思えます。
ただ、そうせざるをえないのが今の社会なんですよね。この世にいない人のために、時間を割かせてもらえない。できることなら、遺体と一緒に過ごして、ゆっくり思い出話に花を咲かせたいけれど、時間がない。火葬場が混み過ぎて忌引きが足りない現実もあります。
昨年、母が亡くなってから葬儀までの10日間を弔問期間としました。葬儀社さんからは、「10日間もずっと来客の対応をしなければならないですよ」と心配されました。たしかに、何時に弔問にお見えになるか分からないですし、臨終までの経緯を何十回も話しましたから、疲れはしました。ただ、嫌な疲れではなく、むしろ贅沢な時間を過ごせたなと思っています。
10日間は、まさに母を中心にした生活でした。そのおかげで、遺体との別れも穏やかにできました。この一年、穏やかに過ごせたことの一因かもしれません。寺の人間だからこんなことができたと思います。大学が休みに入っていたことも幸いでした。
法事や葬儀というのは、準備段階も含めて故人を中心とした時間です。自ずと亡き人とのつながりを感じ、亡き人と出会う時間でもあります。みなさんが、お仏壇やお墓に手を合わせる時間がまさにそうですよね。
母の一周忌を経て、みなさまにも亡き人との時間を大切にしていただきたいとあらためて思います。そして、こんなご時世でも、ご葬儀、ご法要をしっかりつとめようと骨を折ってくださる、そのお気持ちに応えられる儀式をしなければと改めて気を引き締める次第です。