秋の彼岸法要ご報告

9月に入っても厳しい残暑でしたが、お彼岸が近づくにつれて、少しずつ過ごしやすくなってまいりました。9月24日の彼岸法要当日は、前日までの雨模様が一転、カラッとした好天に恵まれ、多磨霊園も墓参でにぎわっていました。

いつも13時から法話、14時から法要だったところを、13時半から法話、14時から法要としてみました。トータル2時間はお参りの皆さんも大変ではないかと考えて、実験的に変更した次第です。さらに、あらかじめ話を準備せず、質問をいただいて答えるというQ&A法話(?)に挑戦してみました。夏の施餓鬼法要では、ゲスト講師を招いてみましたが、これからもより良いお参りの時間にするべく試行錯誤してまいりますので、みなさまの率直なご意見、ご感想、ご要望をお聞かせいただければ幸いです。

また、今回は3人の僧侶でおつとめをいたしました。毎回、雅楽(笙)を奏でていただいている虎ノ門・栄立院の福西住職に加えて、西調布・光岳寺の内田住職にお手伝いいただきました。声のボリュームも1.5倍になりましたので、みなさまにも満足していただけるのではと思います。次回以降も、都合がつく限りは来てもらえるとのことです。

それではみなさま、季節の変わり目、くれぐれもご自愛くださいませ。

黙祷の思い出

寺報『信友』231号の巻頭「黙祷の思い出」を転載いたします。
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猛暑だったり、台風が来たりと、ちょうどいい天気がない夏ですね。みなさん、体調崩されていないでしょうか。

今年は戦後78年、8月15日は78回目の終戦記念日でした。大学院時代、戦前の政治と宗教の研究をしていたこともあり、毎年8月15日には、靖国神社に(参拝ではなく)観察に行っていたのですが、小泉首相や安倍首相が公式参拝しだしたあたりから、静かに追悼する場ではなく、騒々しいキナ臭い場に変わってしまい、行く気が失せてしまった私。いつしか、8月15日は特別な一日ではなく、三百六十五分の一日に変わっていました。

そんなことを思いながら、今年の終戦の日のニュースを見ていて、ふと思ったことがありました。

「我が家はいつから黙祷しなくなったんだろう?」

私が小さい頃の我が家は、8月15日の正午になると、テレビの甲子園中継をつけながら、高校球児とともに、黙祷していたものです。物心ついた頃にはそうするのが当たり前と思っていましたし、おぼろげな記憶では大学生くらいまでは、家族そろって黙祷していました。

黙祷の後には、だいたいこんな話がくりひろげられたものです。

明治39年生まれの祖母は、当時住んでいた浅草の寺が空襲で焼けてしまい、ご本尊をおぶって逃げたこと。

昭和3年生まれの父は、空襲のあとに墨田川の死屍累々をみたこと。神宮外苑の学徒動員の出陣式を見に行ったこと。あと一年戦争が長引いていたら、自分も招集されていたこと。青山墓地でデートをしていたら憲兵に見つかって追いかけられたこと。

昭和13年生まれの母は、近所の神社で出征兵士を見送って、万歳三唱をしたこと。両親の郷里・長野に一家で疎開したこと。空襲・戦災のどさくさに紛れて自宅を奪われないように祖父だけが人形町にとどまったこと。疎開先で澄み渡る青空のもと、みんながラジオの前に呼び出され、玉音放送を聞かされたこと。内容は分からなかったが、大人たちが泣いていたこと。

みんな、このように戦争を体験し、記憶に刻まれているからこそ、終戦の日に黙祷をすることは当たり前だったのでしょう。

今思うと、これは私にとって、間接的な戦争体験だったのかもしれません。戦争を経験していないけれど、直接体験した家族の話から、戦争は嫌だという感覚はしっかり植え付けられたと思います。

しかし、祖母も父も母もこの世を去り、私もいつしか黙祷をしなくなっていました。

昨年末、「徹子の部屋」にタモリさんがゲストに出た際、黒柳徹子さんに「2023年はどんな年になると思います?」と聞かれ、「新しい戦前になるんじゃないでしょうか」と答え、話題になりました。

もう戦争をハッキリ記憶している人は80代半ばになろうとしています。家族からあれだけ戦争体験を聞かされた私も、黙祷を失念してしまっています。そんなことでは、我が子に戦争は嫌だと伝えるのは心もとない。

ロシアのウクライナ侵攻では、双方に10万人ともいわれる死者が出ているのだとか。10万はたんなる数字ではありません。一人ひとりの人生があり、嘆き悲しむ家族がいるはずです。それなのに、テレビではゲームのようにロシアやウクライナの映像を流して、ドローンだミサイルだと解説をしています。私たちもどこか他人事のようです。

戦争の悲惨さを忘れてしまえば、「新しい戦前」はすぐそこにやってくるでしょう。ごく身近に戦争の苦しさを伝えてくれる家族がいたありがたさを、あらためてかみしめ、戦争は嫌だということを、子供たちに伝えていきたいと思った夏でした。

府中のコミュニティFMに出ます

府中にはラジオフチューズというコミュニティFMがあります。

そのFM局に「府中ラジオ東の仲間たち」という番組がありまして、8月3日(木)18時30分からの放送回に私が出ます。

MCのイーストコバさんがお一人で寺にやってこられ、録音機を回して収録をして帰っていきました(笑)

ラジオということで、お互い、短パンという気楽な恰好で気楽にお話ししました。

ラジオフチューズが聴けないという方は、以下のサイトでも同時配信されるとのことですので、ご視聴ください。

https://stand.fm/channels/63ac47177655e00c1c1a7a07

施餓鬼会法要ご報告

猛暑というより酷暑と言いたくなるような日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。蓮宝寺の本堂は2階にあるため、日中は40度近くになることもあり、立てていたロウソクがぐにゃりと曲がってしまうことも。(写真:7月17日に曲がってしまったロウソク)ロウソクのように溶けて倒れてしまいませんよう、くれぐれも熱中症にはお気を付けください。


さて、7月8日に施餓鬼法要をおつとめいたしました。コロナ第9波の懸念や雨の予報もあるなか、30名近いご参列をいただくことができ、誠にありがたいことと思いながら、おつとめいたしました。当日は曇り模様でしたが、雨は降らず、それにもホッと一安心でした。

今回は初の試みとして、ゲストに講話をお願いいたしました。ゲストは府中で訪問看護師として働くかたわら、「ふちゅうのグリーフサポート」という団体を立ち上げ、近しい方を亡くされた遺族が安心して思いを語れる場所を開かれている神藤有子さん。私の母の看取り時にも、親身になってアドバイスをしてくださった方で、癒しのオーラを放つ素敵な女性です。在宅医療や遺族の集いで、神藤さんが学んだこと、気づいたことなど、丁寧にお話いただきました。


今後も彼岸法要、施餓鬼法要では、住職の法話だけでなく、ゲストをお招きしての講話も織り交ぜていきたいと考えております。

なお、秋の彼岸法要は9月24日(日)を予定しています。次号の信友であらためてご案内いたします。適度な栄養と休養でこの夏を乗り切りましょう!

キサーゴータミーのお話

寺報『信友』230号の巻頭「キサーゴータミーのお話」を転載いたします。
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お釈迦様の説話は数えきれないほどありますが、キサーゴータミーのお話はご存じの方も多いかと思います。

キサーゴータミーというのはあるお母さんの名前です。やっと歩けるくらいになった男の子がいたのですが、病で亡くなってしまいました。2500年も昔のインドですから、幼くして亡くなる子どもも多かったことでしょう。

キサーゴータミーは我が子の死を受け入れられず、道行く人々に「この子の病を治す薬を知りませんか?目を覚まさせるお薬はありませんか?」とすがります。死んだ子を生き返らせる薬などあるはずもないので、みんな、困り果てるばかり。ある人が、「お釈迦様のところにいけば、お薬を出してもらえるかもしれない」とキサーゴータミーに教えてあげました。

キサーゴータミーは我が子を抱えて、お釈迦様のもとに。「どうかこの子を治すお薬をください」と懇願するキサーゴータミーに、お釈迦様は「よろしい。それでは、町に行って芥子の実をもらってきなさい」。「そんな簡単なことでよいのですか?」と尋ねるキサーゴータミーに、「ただし、今まで誰も死んだ者のいない家からもらって来なければいけません」とお釈迦様は伝えました。

一目散に町に向かったキサーゴータミー。一軒一軒、「この家では誰も亡くなっていないでしょうか?」と尋ねます。

「うちは十年前におじいさんを亡くしたよ」
「去年、母を亡くしたばかりだ」
「先日、うちも子ども亡くしたんだ」
「あなたの気持ちは分かるが、世の中、生きている人より死んだ人の方がはるかに多いんだよ」

どの家にも死んだ人がいます。それでも、諦めきれないキサーゴータミーは必死に歩き回ります。しかし、一向に芥子の実は手に入りません。ついに気力も体力も尽きたキサーゴータミ―は、冷たくなった我が子を抱いてお釈迦様のもとに帰ります。

「芥子の実は得られたか?」と問うお釈迦様に、「死者を出していない家など一軒もありませんでした。人は皆、必ず死ぬことが分かりました。我が子が死んだことにようやく気が付きました」と泣き崩れるキサーゴータミー。

そして、キサーゴータミーはお釈迦様の弟子となり、生死を超える道を目指したのだそうです。

どうしてキサーゴータミーは我が子の死を受け入れられたのでしょう?一般的には、キサーゴータミーは「人は必ず死ぬ」という真理を知ったからだ、お釈迦様はその真理を分からせるために芥子の実を死者を出したことのない家からもらうように命じたのだと解釈されます。

仏教の原理からいえば、その解釈はたしかに妥当なんですが、私はちょっと違う見方をしています。

キサーゴータミーは何度も「我が子が目を覚まさない、冷たくなってしまった」と話したことでしょう。そして、町の人々はその子が生き返らないことを察しながら、「それはつらいことですね」と言葉をかけてくれたでしょう。

「去年、母を亡くしたばかりだ。まだ寂しいよ」
「うちも子どもを亡くしたんだ。それはそれは悲しかった」

そんな会話もあったかもしれません。

キサーゴータミーも、「人は必ず死ぬ」ということくらいは知っていたはず。でも、まさか我が子がこんなに早く旅立つとは思ってもいず、頭と心がバラバラに、ぐちゃぐちゃになってしまったのではと推察します。

キサーゴータミーは、たくさんの人に心情を吐露し、そして言葉をかけられ、相手の経験も聞くなかで、次第に我が子の死を受け入れられる心の状態になったのではと私は思うのです。それは、昨年、母が亡くなった時、多くの信友のみなさまにご弔問いただき、話し、話されるなかで私自身が癒された経験からも、強く思うことです。

今回の施餓鬼法要では、いつもと趣向を変えまして、前半が私の法話、後半にゲストにお話いただくことにいたしました。

お招きするゲストの神藤有子さんは、府中市内で訪問看護師として勤務するかたわら、遺族の集い「つきあかり」の主催者でもあります。大切な人を亡くした方々が、安心して寂しさ、悲しさを話せる場所を提供されています。それは、いわば、現代におけるキサーゴータミーの救いの場所かもしれません。

私たちは誰もが愛する人を失い、必ず遺族になります。在宅医療や遺族の集いの現場から神藤さんが気づいたこと、学ばれたことを教えていただき、私たちの生きる智慧としたいと思います。

春の彼岸法要ご報告

今年は桜が早く、東京では4月を迎える前に散り始めていますね。妻の実家の秋田では、有史以来はじめて入学式に桜が咲くのではと大騒ぎだそうです。(例年、秋田では4月中旬以降の開花なのです)

さて、3月19日に春の彼岸法要をおつとめいたしました。前日は大雨でどうなることかと思いましたが、19日は晴れ間も見えるちょうどよい気候でホッと一安心。

午後1時からの法話では、コロナ禍のなかでお亡くなりになった岡江久美子さん、上島竜兵さん、アントニオ猪木さんという私が愛してやまない人たちに思いを馳せながらのお話、増上寺の御忌法要で気絶しかけた恥ずかしい話など、あまり法話とは言えないような内容で失礼いたしました。精進したいと思います。

午後2時からは、いつものように虎ノ門・栄立院の福西上人に雅楽(笙)を演奏してもらい法要がスタート。お申し込みをいただいた180のご回向ならびに永代供養の各霊位のご回向をさせていただきました。

法要には29名の参列をいただき、法要には間に合わなかったものの、寺にお寄りいただいた方々も合わせると40名近いお参りでした。昨年の秋の彼岸法要には25名でしたので、少しずつコロナ以前に戻ってきているのかもしれません。お持ち帰り用の軽食を数日前に思い立って10個追加したのですが、結果的にピッタリで、自分の勘を褒めてあげたくなったほど。数年ぶりにお顔を拝見できた方も多くて、住職としてはとても嬉しい彼岸法要でした。

また、法要翌日に多磨霊園にお塔婆をあげてまいりました。その際に、古く変色しているお塔婆(だいたい昨年の春彼岸~夏施餓鬼にあげたものが目安)を私の方で撤去しております。母の生前は毎年末に自転車でかけまわって行なっていたのですが、昨年末は私がウッカリ失念しておりました。ご海容ください。

なお、施餓鬼法要は7月8日(土)を予定しています。次号の信友であらためてご案内いたします。

これから春本番となりますが、まだ昼夜の寒暖差がございます。くれぐれもご自愛ください。

亡き人のために骨を折る

寺報『信友』229号の巻頭「亡き人のために骨を折る」を転載いたします。
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早いもので2月5日に母の一周忌を迎えました。十分に見送れたという実感があるおかげなのか、二児の育児に追われているだけなのかは分かりませんが、この一年、悲しさや喪失感に襲われることなく、母の話題はだいたい笑い話。ありがたいことです。

一周忌法要は親しい僧侶三人に勤めてもらい、参列はごく身内と総代さんのみのこじんまりしたもの。とはいえ、当日を迎えるまで、返礼品や会食会場の手配、御礼の額に頭を悩ませ、当日は当日でてんやわんやの忙しさ。

信友のみなさんも、親族との日程調整や諸々の手配で骨を折られて、法要にお越しになられるのだと再認識しました。

コロナもあり、近年は法要の簡素化、簡略化が進んでいると言われますが、一方で「死者の復権」なんていう言葉もあるのだとか。

私たちは生きている人の都合を優先して、亡き人の悼まれる権利を侵害しているのではないかという議論のようです。「権利」なんて聞くと、小難しそうですが、たしかに、昔に比べると、亡き人よりも生きている人の都合を優先するようになっているのかもしれません。

かつては、家族が亡くなれば、自宅で安置。家を留守にはできません。忌引きをとって、遺体の番をします。通夜は夜通し故人のそばで過ごし、葬儀が終わっても、四十九日まで七日ごとに自宅で法要をつとめていました。息を引き取ってから、少なくとも四十九日まで、家族は故人を中心とした時間を過ごしていたんですね。

それに比べて今の葬儀全般を見ると、生きている人の都合が優先され、故人はないがしろにされているという指摘もあながち間違っていないように思えます。

ただ、そうせざるをえないのが今の社会なんですよね。この世にいない人のために、時間を割かせてもらえない。できることなら、遺体と一緒に過ごして、ゆっくり思い出話に花を咲かせたいけれど、時間がない。火葬場が混み過ぎて忌引きが足りない現実もあります。

昨年、母が亡くなってから葬儀までの10日間を弔問期間としました。葬儀社さんからは、「10日間もずっと来客の対応をしなければならないですよ」と心配されました。たしかに、何時に弔問にお見えになるか分からないですし、臨終までの経緯を何十回も話しましたから、疲れはしました。ただ、嫌な疲れではなく、むしろ贅沢な時間を過ごせたなと思っています。

10日間は、まさに母を中心にした生活でした。そのおかげで、遺体との別れも穏やかにできました。この一年、穏やかに過ごせたことの一因かもしれません。寺の人間だからこんなことができたと思います。大学が休みに入っていたことも幸いでした。

法事や葬儀というのは、準備段階も含めて故人を中心とした時間です。自ずと亡き人とのつながりを感じ、亡き人と出会う時間でもあります。みなさんが、お仏壇やお墓に手を合わせる時間がまさにそうですよね。

母の一周忌を経て、みなさまにも亡き人との時間を大切にしていただきたいとあらためて思います。そして、こんなご時世でも、ご葬儀、ご法要をしっかりつとめようと骨を折ってくださる、そのお気持ちに応えられる儀式をしなければと改めて気を引き締める次第です。

最初で最後の旅

寺報『信友』228号の巻頭「最初で最後の旅」を転載いたします。
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この原稿を書いているのは11月27日。ちょうど1年前、私は母と姉と3人で信州を旅していました。

10月の後半、悪性リンパ腫の治療を断念し、在宅緩和ケアに移行すると、思いのほか母は元気になりました。闘病中から、ことあるごとに長野県東御市にある両親の墓参りに行きたいと行っていた母。この調子なら、墓参りに連れていけるのではないかと考えた姉と私は、在宅医療の主治医に相談します。

すると、「行けるうちに早く行った方がいいです。今の状態からよくなることはないですから」との返答。それなら善は急げと、宿を手配。身体に負担がかからないように、レンタカーで大き目の車も手配します。驚いたのは、今は在宅医療の連携が進んでいて、宿泊先に吸引用酸素の機械を設置しておいてくれるんですね。

出発が近くなり、一つ気がかりだったのは、旅の途中でお迎えが来たらどうしようということ。なにせ緩和ケアに移行していますから、いつどうなってもおかしくない状態です。それを主治医に尋ねますと、

「宿でそうなったら医療機関に行かざるをえませんが、もし車の中でそういうことになったら、とにかく家まで帰って来てください。家に帰りたいと切望していたお母さんが、見知らぬ土地の病院で亡くなることになってしまいますから。もし、検問で警察に捕まったら、私に電話をしてください。事情を説明します」と心強い言葉をくれました。

おかげで一泊二日の旅行中に心臓が止まることもなく、温泉にも入ることができ、母も大満足をしてくれました。両親の墓に涙を流しなら手を合わせていた姿が思い出されます。

実は母との旅行は人生で初めてでした。中学受験の日に大雪が降ったため、都内のホテルに一泊したことが唯一の母との外泊で、それ以外に旅行らしい旅行は皆無だったのです。

家族旅行は、いつも父・姉・私の3人。母はいつも留守番でした。訃報の電話がいつかかってくるか分からないので、寺を空けてはならないというのが昔の寺の常識。意地悪な祖母に留守番を頼むのも嫌だったのでしょう。

父の没後、母にも自由が訪れ、姉と年に何回か旅行に出かけるように。一方、妻帯した私は妻とは旅行に行きますが、母と旅行することはありませんでした。

いざ、在宅緩和ケアとなり、母の死を意識せざるを得なくなると、一度も家族旅行をしなかったことが心残りに感じられるようになりました。ずっと一つ屋根の下で暮らし、一緒にいた時間はとても長いのですが、「家族旅行」という、世の中の「当たり前」を、私は経験してみたかったのかもしれません。そして、寺に嫁いだばかりに自由な生活を送れなかった母に、最後に人並みの「家族旅行」を味わって欲しかったのかもしれません。

信州の墓参り旅行は、母の願いをかなえる旅でしたが、私の願いをかなえる旅でもありました。

自分や大事な人の人生の終わりを意識した時にはじめて気づく「願い」というものもあるようです。みなさんの願いはどのようなものでしょうか?

本日の彼岸法要

台風一過の好天に恵まれた本日ですが、彼岸法要は14時前後からの開始になります。
(おそらく13時50分くらい?)

YouTubeライブ中継は以下のURLになります。

よろしく醒覚すべし

寺報『信友』227号の巻頭「よろしく醒覚すべし」を転載いたします。
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七月の施餓鬼法要のご報告をしたばかりのような気がしておりましたが、もう秋のお彼岸のご案内の時期になり、慌てて筆を執っております。遅くなり、申し訳ありません。

年齢のせいなのか、最近、時間が経つのがあっという間。恥ずかしながら、「ああ、何もしないまま今日が終わってしまう……」なんていう日もあります。小さい頃は、一日が長く感じられたのですが、親はこんなに短く感じていたのですね。

子供と大人の時間の感じ方が違うのは当たり前といえば、当たり前。生後三か月の息子を見ていて思うのは、この子の人生にとって今日は九十分の一日、ひるがえって四十五歳の私にとっては一万六千四百二十五分の一日。密度も鮮度も違う。早く感じるわけです。

だからといって、大人の私は無為に過ごして良い、というわけではありません。今日という日は私にとっても息子にとっても一分の一日でもあります。

修行道場の朝は、次の警覚偈(きょうかくげ)というお唱えから始まります。

敬白大衆
生死事大
無常迅速
各宜醒覚
慎勿放逸

目覚まし当番の修行僧が、
「敬って大衆に白(もう)す、生死事大(しょうじじだい)、無常迅速、おのおのよろしく醒覚(せいかく)すべし、慎んで放逸することなかれーーー!」
と大きな声で唱えて、柱から吊るされた分厚い木の板を打ち鳴らし、みんなを起こすのです(板にはこの偈文が書かれています)。

二十数年前のもっと寝ていたい私は、この言葉の意味を噛みしめる余裕はなく、ただの苦痛な思い出しかなかったのですが、時間の早さに怖さすら感じるようになると、ぐっと味わえるようになってきました。

「謹んで、みなさんに申し上げます。いかに生き、いかに死を迎えるかは人生の大問題。時間はまたたくまに過ぎ去ってしまいます。
しっかり目を覚ましましょう。無駄に時を過ごすようなことのないように。」

いやぁ、良いことを言っていますね。自分で書いていて、耳が痛くなってきました(笑)

でも、見方をかえれば、毎朝こう言い聞かせないと、怠けてしまうのが人間なんですよね。だから、「このように生きるようにしましょうね」という目標を仏さまが設定してくれているのです。目標があることで、そうできない自分に気づくこともできます。

真面目に考えすぎて、ストレスで寿命を縮めてもいけません。放逸してしまった時には、「今日は無駄に過ごしてしまいましたが、明日は目を覚まして生きます」と気持ちを切り替えれば良いでしょう。

今日という日は、あなたにとって大切な誰かが生きたかった一日でもあります。私の父も母も、今日を生きたかったかもしれません。

亡き人たちの思いを引き継ぎながら、しっかり目を覚まして生きていきましょう。