今、いのちを思う

新型コロナウィルスの流行はいつがピークなのかも分からず、大きな不安の中でお過ごしのことと思います。ある医師の話では、今、みんながストレスのために血圧が高くなっているそうです。

特にコメディアンの志村けんさんの訃報は大きな衝撃を私たちに与えました。訃報そのものも深い悲しみを呼びましたが、面会もままならず、ご遺体に家族が会えないという事実に、多くの人が感染症の恐ろしさを再認識しました。

指定感染症の場合、入院しても直接の面会は難しいと言われています。臨終後、遺体は医療機関で納体袋に納められ、そのまま棺に。聞くところによれば、感染予防のため、顔を見ることも花を入れることもできぬまま、早ければ二十四時間以内の火葬となるようです。

イタリアで多くの聖職者が亡くなられたのは、キリスト教の終油の秘跡(臨終間際・直後の信者の額・手に油を塗る儀式)を感染者に対して行ったことによる二次感染と報道されているように、亡くなった後であっても、ウィルスは伝染力を持っています。ですから、強力な感染症の場合、衛生的な観点からは、遺体の密封・早期火葬はいたし方ありません。しかし、死に化粧や最後の花入れが一般的な葬送習慣となっている我が国では、新型コロナで亡くなられた方とのお別れはなかなか受け入れがたいものです。

「最後は一晩、病室で一緒に過ごせました」、「安らかな顔で眠っていますから、見てあげてください」といった言葉を聞いた方も多いのではないでしょうか。最期の時を共に過ごし、きれいな顔と別れるということが、ご遺族の心の安らぎに少なからず影響していると感じるだけに、もし私のまわりで新型コロナによって亡くなる方が現れたらと思うと、どう受け止めたら良いのか、どうご遺族に接したら良いのかと、迷ってしまうのが正直なところです。

また、医療崩壊の危機が叫ばれています。ベッドが足りない、医師が足りない、病院がパンクしてしまう。そんなイメージで語られやすいですが、最も悲しく、恐ろしいことは、否応なく命の選別が行われる事態でしょう。

医療の資源が限られていて、その受け入れ可能な量を超える重症患者が殺到すれば、「助かる命・助かる可能性の高い命」と「助からない命・助かる可能性の低い命」が選別され、優先順位がつけられます。多くの場合、高齢者よりも、若い世代が優先されるでしょう。

人の命を救うために医療者になっているのですから、医療者もそんなことはしたくありません。しかし、そうせざるを得ない状況がもう目前まで迫っているようです。もし、そうなった時、私たちは「なぜ、こんなに頑張ってきたお年寄りが、見捨てられるような最期にならないといけないんだ」とやり場のない思いに襲われるでしょう。

なんとか医療崩壊を食い止めるよう、少しでも感染者が増えないよう、各自が努力して、最善を尽くしかありませんが、私は職業柄なのか、どうしても迫りくる「死」を考えてしまうのです。

志村けんさんの最期や医療崩壊による命の選別を想像し、私もコロナで死ぬかもない、家族が死ぬかもしれない、檀家さんが亡くなるかもしれないと考える。その時、どう受け止めたらいいのだろうかと思い悩めども、正解は見つかりません。

それでも、最期の対面がかなわなくても、どんな亡くなり方であっても、しっかり阿弥陀さまが救ってくださり、安らかな極楽浄土に行けるのだという信心だけは、揺るがずに持ち、お伝えしてきたいと思います。

(4月12日一部改訂いたしました。)