最後の仕事

寺報『信友』203号を檀信徒の皆さまに郵送いたしました。巻頭文「最後の仕事」を転載いたします。
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早いもので、間もなく父が遷化して、一年が経とうとしています。
昨年十二月十四日の早朝に父は息を引き取りました。私、その日の昼に大学で仕事が入っていました。それは、お寺の奥さんたちにグリーフケアについて話すというもの。
グリーフケアというのは、喪失の悲嘆、特に死別の悲しみをケアすることをいいます。ピンチヒッターを誰かにお願いしようかと思いつつも、母も姉も、「お父さんだったら、仕事に行ってきなさいと言うはずだから」と背中を押してくれたので、出勤と相成りました。
「実は今朝、父が亡くなりまして……」なんて言うと、皆さんが動揺してしまうだろうと思って、何も言わずに淡々と話します。「亡くなってしばらくは、その人がもういないという現実になかなか馴染めないものです」とか、「喪失感は心身にいろいろな形で表れてきます」などと講義するわけですが、妙な気分になったことを覚えています。なにせ、一番の当事者が私なのですから。
現実感がないというか、数時間前に父親が亡くなった私、葬儀の準備や連絡を早くしないといけない私、死別の悲しみについて講義している私、それらがバラバラで夢の中を漂っているような感じでした。
その三日後の十七日、再び大学で仕事です。オープンカレッジ(一般の人向けの講座)で「葬儀・葬送の基礎知識」の講義を、通夜を翌日に控えた私がするという、これまた悪い冗談のような仕事。しかし、その頃は無感情で、ただただ無我夢中、目の前に山積みになった、やらなければならないことをひたすら片付ける、そんな毎日でした。
密葬が終わっても、ひと息つく暇もなく、二月の本葬の準備です。不思議なことに、ふりかえると一月、二月の記憶が結構抜けています。たとえば、夏頃になって、「あっ!税務署に出す法定調書、忘れてた!」と大慌てしたものの、調べるとちゃんと出しているのです。だけれども全く記憶にありません。記憶力が低下していたのか、機械のように働いていたのか、我ながら、よくやっていたなと思います。
やっと本葬が終わり、今度は気が抜けたのか、3月から5月くらいまではずっと体調不良。風邪→胃腸炎→一週間の健康→再び胃腸炎→風邪、そんな日々でした。
秋の彼岸くらいになると段々生活にも慣れてきて、父のことをゆっくり思うことも出てきました。親父だったらきっとこう言うだろう、こう思ってくれるだろうと、思い出を頼りに想像します。ああ、これが亡き人と会話をする、偲ぶということなんだなとあらためて実感しています。
こうして一年を綴ってきましたが、これ、全部、私が十二月十四日に話していたことなんですね。無感覚、記憶力の低下、体調不良、故人との語らい。家族と死別をした人によくあらわれる過程なのです。今までどこか他人事として話していたことが、我が事となった一年だったのかもしれません。
死んでいくということは子どもへの親の最後の仕事とも言いますが、父もまた死によって私に多くのことを教えてくれたようです。