暗闇と救いの手

寺報『信友』237号の巻頭「暗闇と救いの手」を転載いたします。
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先日あるホテルに泊まった時のことです。

その日は深夜1時から5時まで全館停電のため、料金が安くなるというので、「そりゃ良いや」と思っていました。エレベーターも非常灯も冷蔵庫も全て止まるそうですが、1時から5時まで寝てしまえばいいわけですから。

しかし、そういう時に限って、夜中に目が覚めてしまうんですよね。カーテンを閉め切っていたため、月明かりすら入らず、真っ暗闇。ベッドから降りると、自分がどっちに向かって立っているかも分かりません。目をつぶったり、目隠しをしたりした時の暗闇とは全く違う感覚でした。全く光の無い世界、暗闇に包まれたような感覚です。

仏教では迷いの世界を暗闇の世界と言ったり、私たちの煩悩の源は無明(真理を知らない、つまり明かりが存在しない暗闇)と呼んだり、暗闇をよく使います。一方で、智慧を光で表現したり、阿弥陀如来はその光明で暗夜を照らし、私たちを救ってくださると説きます。暗闇(煩悩、迷い)と光明(悟り、救い)を対比するのです。

私もこうした表現をついつい使ってしまうのですが、ホテルで闇に包まれながら、いやはや真の暗闇とは恐ろしいものだなあぁと感じました。5時になれば明かりがつくと分かっているから良いものの、これが永遠だったらどれほど不安でしょうか。電気の無い古代インドの人たちは、きっとこうした暗闇の不安を体感的に理解し、だからこそ、仏様の智慧や救いを光にたとえたのだと実感しました。

蓮宝寺のお檀家さんに人生半ばで視力を失われた男性がいらっしゃいます。お参りに来られるときはいつも奥さまが寄り添い、親身にお世話をされています。

ある時、私が「奥さまがお優しくて、何よりですね」と声をかけると、そのご主人は、「本当に私にとっては観音様です、ありがたいことです」と感謝を述べられました。

暗闇の中でこのやり取りを思い出した私は、このご主人の言葉は誇張でもなんでもなく、心の底からの言葉だったのだとあらためて感銘を受けました。自分がどこにいるのか、目の前に何があるのか分からない世界で、奥さまは迷える者に救いの手をさしのべる観音様にほかなりません。

私はその奥さまのように信友のみなさまの観音様には到底なれません。せめて、仏さまの教えが、少しでもみなさの暗闇(不安)を照らす光となるよう、お伝えしていければと気を引き締めた夜でした。

ちなみに再び眠りについたのですが、5時に全ての電気がついてしまい、大慌てで電気を消してしまいました。過ぎたるは猶及ばざるが如し。程よい光明がよろしいようです。