考えてしまう私

2月に発行した寺報『信友』の巻頭「考えてしまう私」を転載いたします。
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みなさま、年末年始はいかがお過ごしでしたでしょうか。除夜の鐘の無い蓮宝寺の大晦日は、夕方に納めの法要を家族だけで行い、静かに年越しを迎えます。

大晦日のテレビといえば、はるか昔から紅白歌合戦ですが、最近は日本テレビの「笑ってはいけない」シリーズも人気があるようです。ダウンタウンなど五人のお笑い芸人が、「笑うとお尻を叩かれる」というルールのもと、さまざまな笑いの仕掛けに耐える一日を追う番組です。

してはいけない状況ほど、したくなってしまうもの。そんな誰もが経験したことのある矛盾した心理をうまく利用したのが、ヒットの秘訣なのでしょう。

葬儀や法事の席も笑ってはいけない代表的な場面。そんな時に不意のアクシデントが起こって、笑いをこらえたことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

私の場合、さすがに導師をつとめていて、笑いそうになったことはありませんが、若い頃、あるご老僧とご一緒した時、あまりに独特な読経に、吹き出しそうになったことが思い出されます。(ずっとうなっているようで、全く言葉が聞き取れなかったのです。)

話はそれますが、してはいけない時にしたくなってしまうことというと、私はまず御小水が浮かびます。汚い話で申し訳ありませんが、見かけによらず繊細な私は、お手洗いに行けないと思うと、したくなってしまうのです。なので、五〇分ほどかかるお通夜の時など、開式一〇分前に着替え終わっても、五分前になって「やっぱりもう一回行っておこう」とまた脱いで…、こんなことの繰り返しです。

昨年の十二月に人生二度目の人間ドックを受けた時のこと。尿検査があるだろうと、少しの尿意はそのままに受診室に。そこで看護師さんから、「膀胱のエコー検査が終わるまでは、御小水は控えてください」との一言が。

てっきりすぐに採尿と思っていた私は、その一言で、いつものように必要以上に意識が尿意に向かいます。八人くらいが同時に受ける人間ドックで、各検査の空き状況に応じてバラバラに呼ばれるので、膀胱の検査がいつになるのかさっぱり分かりません。

一時間近くが経ったでしょうか。やっと呼び出され、ひとまず安堵。しかし、エコー検査というのは、器具を下腹部にぐいぐい押すものですから、心の中では悲鳴を上げる私。解放され、コップ片手に化粧室に駆け込み、私に平安が訪れました。

つくづく思います。心は自分の思い通りにならないものだと。お手洗いのことなど考えなければいいはずなのに。考えないようにしているのに。でも、勝手に考えてしまう。心は全然私の言うことをきいてくれません。

禅宗の祖といわれる達磨大師と弟子の慧可のこんな問答があります。
「私の心は不安でしかたながい。安心させてください」という慧可に、達磨大師は「その不安な心とやらをここに持ってきなさい。そうしたら安心させてやろう」と返します。慧可が「心を探してみましたが、得られませんでした」と答えると、「ほら、お前を安心させてやったぞ」と達磨大師。
達磨大師が慧可に伝えたのは、不安という実体なんて無い、その実体のないものに苦しむことはないだろうということなのだと思います。

私の場合、「お手洗いにいけない」は、「不安」なんですね。「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせても、不安は消えない。不安はどんどん大きくなり、体にも尿意という形で表れてきます。まさに実体のないものに心身ともに振り回されています。

禅宗はそんな不安にとらわれない平穏な心を目指しますが、浄土宗は「そうはいっても、不安になっちゃうのが人間ってものなのよ」という考え。私も、自分自身の学習能力の低さに呆れることもありますが、「まあ、しかたない」と最終的には自分を許してあげています。それでも、一応、僧侶ですから、お手洗いに限らず、不安に襲われる時には、「実体のない不安に苦しんでるな」と自分を客観視はしています。そうすることで、不安に飲み込まれるのではなく、不安とうまく付き合うことができるように思います。

ちなみに、人間ドックの結果はコレステロールや中性脂肪がひっかかった以外は大きな異常はありませんでした。ご報告まで。