祖母の涙

昨年12月に発行した寺報『信友』の巻頭「祖母の涙」を転載いたします。
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平成31年4月末日をもって、「平成」が終了するそうです。次の元号は分かりませんが、来年5月以降に生まれる子たちからすれば、昭和52年生まれの私も、はるか遠い「昭和時代のおじさん」ということになるのでしょうか。

昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御された時、私は小学校5年生の冬休みでした。

前年の暮れから、昭和天皇の容体悪化にともなって、世の中は「自粛」ムード。一方、私はというと、ニュースを見ながら、「下血ってどういうこと?」と父親に尋ねたことを思い出します。父も「今日はかなりの下血だな」などと、他人事のような口ぶり。それくらい、我が家ではのんきに傍観していたものです。

新年を迎え、三が日を過ぎた頃から、風邪を引いてしまった私。結構な高熱でフーフー言っておりました。

近所の医院の診察開始が1月7日ということで、その日は朝一番で母と出かけました。診察が終わって会計を待っている間、患者さんと院長夫人の会話が聞こえてきます。

「今日で昭和も終わりだから……」

テレビをつけないまま家を出てきた母と私は目を見合わせて、

「あれ?」

会計を済ませ、一目散に帰宅しました。

そして、家に戻って見た光景は30年経った今でも忘れられません。

テレビを観ながら、父と祖母が涙を流していたのです。あれだけ下血だなんだと冷やかしていた父。政治のことなど口にしたこともなかったノンポリの祖母。特に、祖母は祖父が亡くなった時も泣いていた記憶がないほど、涙と縁遠い人でしたので、とても戸惑いを覚えました。

「え?なんで泣いているの?そんなに悲しいの?たいして敬ってなかったじゃないさ」と思いつつ、ここは何も言わない方が良さそうだと斟酌した私ですが、大人になり、歴史をかじるようになり、また、父と酒を酌み交わして昔話を聞くようになって、あの光景が腑に落ちるようになってきました。

昭和3年に生まれた父にとって、昭和20年まで天皇は神様であり、青春時代を昭和天皇のために捧げたようなものでした。祖母も、祖父が浅草の寺の住職をつとめていた時代に東京大空襲に遭い、火の海の中、ご本尊をおんぶして逃げ出したといいます。しかし、時代に翻弄され、戦争で散々な目に遭いつつも、昭和天皇に対する感情は憎しみとはなりえなかったようです。

父はよく「今の陛下は戦争を知らないから、どうも認める気持ちが起きない。昭和天皇が俺にとっての最後の天皇なんだ」と口にしていました。戦争、敗戦、復興という苦難の時代を共に生き抜いてきたという思いが、恩讐を超えて、父や祖母の涙に込められていたのもしれません。まさに象徴だったのでしょう。

平成の御代は幸いにして戦争はないものの、阪神大震災、東日本大震災、その他、大規模な自然災害が続発、景気も下降し続けた時代でした。今上陛下もまた、苦難の時代を国民とともに生きる姿を示してこられたように感じます。

次の御代はどのような時代になるか想像もつきませんが、「俺は戦争や大災害を天皇陛下と共に生き抜いたんだ」と涙を流す必要のない平和な時代になることを切に祈ります。